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1-1 パフォーマンスとは運動である

「第1章 脳と運動  運動とは何か?」より

 目にも止まらぬ速さで、手や指を動かす一流のギタリスト。その手首から先は、まるで人間とは別の生命体のようです。

 圧倒的なスピードで手指を動かせること自体がすでに凄いのですが、ギタリストは法則性や決まり事、基礎や型といったものを踏襲しながら、絶妙なタイミングで、押さえ、刻み、叩き、緩め、こすり、掬い、震わせ、響かせ、重ね、鳴らし、揺らし、弾き、止めて、「音楽」を成立させます。

 その様子は、ギターを弾いているというよりも、「ギター自体が鳴っている」ように感じられるほどです。オーディエンスの身体全体に空気の塊がぶつかり、その振動が脳内で音楽として再生されます。


 もし一発のクリーンヒットをもらえば重大な後遺症を抱えかねない緊迫感の中、プロボクサーは一瞬、一瞬を奪い合います。

 相手選手のハードパンチの猛攻を受け続け、本人以外の誰もが「負け」を確信したその時、ほんのわずかな時間と空間の隙間にスッと刺し込まれる何気ないパンチ。

  まるで文章中の「、」や「,」のように、ごく自然な流れに置かれた一撃が、全体の流れを大きく変え、目の前の光景を疑うような劇的な逆転KOが訪れます。鍛え抜かれた肉体、洗練された高度な技術を駆使しながらも、たったひとりでも可能性を信じ続ける人間の強さが観る者を奮い立たせます。

「ああロミオ。あなたはどうしてロミオなの?」

 ジュリエットのセリフを発しているのはジュリエットではありません。全くの他人である俳優は、発する声、表情、鼓動、波動、熱量、心の動きなど、もてる全てを動員して、その人以上にその人になります。

 400年以上も前の古い英語で書かれた物語が、時代、地域、言語、時には性別をも軽々と飛び越えて、〝最新型のロミオとジュリエット〟として今、この時代に現出し、ふと気がつけばその俳優はジュリエットにしかみえなくなります。虚構から生まれた演技が人々に感じさせるのは人間のリアリティです。

 どれも圧倒的パフォーマンスです。人間がやっているのに、神の存在さえ感じるような技の数々。どれも全く異なるジャンルの、全く違う表現ですが、これら全てのパフォーマンスに共通するのは、「運動」です。

「フライパンにオイルをひいて卵料理をつくる」のも、「チームを代表して新製品のプレゼンを行う」のも、「スマホ画面でお気に入りの動画を視聴する」のも、「ノートに計算式を書いて解を導く」のも、「文字情報を追いかけて小説を読破する」のも、

全て「運動」なしには成立しないのです。
 

運動には、「意図的な運動」と「意図的でない運動」があります。

 たとえば「心臓や内臓が動く」というのは意図的でない運動です。

  自分の意思で心拍数を速めてみたり、膵臓から分泌される膵液を今年は例年より多めに出してみたり、宿命のライバルよりも膀胱を大きく拡げてみたり(そこ張り合ってどうする?)するのは無理なように、それらは自動的に調整されています。

「熱いものに触れた時、瞬間的に手を引っ込める」のように反射的に行う運動も、意思は介在せず脊髄レベルで起きるので、意図的でない運動に入ります。
 
本書では意図的な運動、つまり「それをやろうと思って遂行される運動」について述べたいと思います。

PS:あきらめる前に読んでほしい。

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