二階から猫、地上から私

空は鳥を近くで飛ばしたり
遠くで飛ばしたり
けしつぶから消したり
空は鳥にそうしかしてやれなくて
我々は
「鳥が飛ぶ」
としかいいようがなくて
鳥よ
羽をまるごと外してみてくれないか
お前が空を滑れるのは
その我がもの顔加減は
羽があるから などと
そんなかんたんなことではないと
ぼくは思うのだ。

川崎洋 「鳥」

今日、昼間にベランダから下の路地を見下ろすと、近所の猫が一匹歩いていた。
臆病な白黒八割れ模様の猫で、毎日会うけど全然仲良くならない。
タバコを少し休止して舌でコッコッと口内を鳴らすと、八の字と目が合った。
こちらを見上げ、薄黄緑の瞳でしっかりと私の眼差しを捉えているが、まったく怖れる気配はない。
それどころか『なんだ、ただのベランダから顔を出す暇人か。』という感じで、そそくさと散歩に戻ってしまった。
私はビビられないのがちょっと寂しかったが、そのあと野花を嗅いでいる姿を見て、すっかり許してしまった。
まぁ、猫は近眼だと聞くし、ベランダでじっとこちらを見下げてくる人間は、手すりと見分けがつかなかったのかもしれない。

それで思ったのだが、もし私がベランダから飛び降りて八の字に挨拶しに行ったら、果たして猫はどれだけ驚いただろう。
私の言うベランダは、私の部屋から出るベランダで、二階の高さにある。
しかし、二階といっても、路地の石垣の上に立つ家の二階なので、平地からは三階くらいの高さに相当するかもしれない。
猫はさぞ驚いて、ぴょーんと逃げていくだろうが、その頃私はというと、骨折か、運が悪ければ流血もあるかもしれない。
猫のびっくりした顔を見るためにそんなリスクはとれない。

しかし、立場が逆ならどうか。
ご存知の通り猫は高いところからのジャンプが得意である。
平均して二階建てくらいの高さなら、なんなく無事に着地を決めると言われている。
それ以上の高さでも、落下の体勢が整っていれば大概は大丈夫らしい。
その秘密は内耳の三半規管の鋭さ(地面との距離感の把握)と、落下中のムササビ飛行、そして着地に向けての身体の微妙なひねりにあるらしい、あ、あと可愛らしい肉球も。

ところで、冒頭に引用したのは日本の詩人、川崎洋さんの『鳥』という作品だ。
この詩は、私たちが非常に素直に忘れていることを、非常に素直に拾い上げて、非常に鮮烈にまざまざと見せつけてくる。

どうして鳥は、空を飛ぶのか。
どうして猫は、二階から飛ぶのか。

私たちは、色々と理屈づけて説明するけれど、しかし、そうやって生命が飛んだり跳ねたりしていることの、その目の当たりにする光景の、その有り様の不思議さは、依然として分かっていないままだ。
川崎さんの詩集を手に入れるのは、私には少し難しい。
これも、他の作家さんの文章の中で知った。
以前にも少し話に出した石垣りんさんの著作で取り上げられていたのだ。

石垣さんは、この詩に出会ってから空が新しくなったという。
私はその石垣さんの文章を読んで、小学校かの差別教育で学んだ、字の読み書きを習ったおばあさんの話を思い出した。
時代と生まれの都合で、晩年まで字の読み書きができなかったおばあさんが、はじめて字を勉強する。
ある日、「美しい」という言葉を学ぶ。
その帰り道、向こうに沈む夕陽を見る。
それまでの人生では、まぁ、夕陽はこういうものだ、とだけ思っていたところである。
しかし、「美しい」という言葉を知った途端、それが急に大変美しいものに見えて、はじめて夕陽を見た気がした、というのだ。

言葉は不思議である。
類い稀な人が、類い稀な感性で掴んできた言葉は、現実をまったく変えてしまう。
そして、また、言葉に素直に向き合っている人間も、同じような鋭さで、驚くべき現実を発見する。

二階から目薬。
時に素直に角膜へ落ちる言葉は、貴重な財産に違いない。