「失敗してもいいよ」は本当か?学校教育と外国語学習。
勤務校の同僚の先生方と一緒にコーチングについて専門の先生から学んでいます。そんな講座の中である先生の発した疑問がとても刺さりました。
「学校の授業で,生徒が失敗していいと思ってる場面ってあるんでしょうか?」
確かに,ないかもしれない。
というのが今このnoteを書き始めている瞬間の自分の考えです。書いていくうちに変わるかもしれません。
先生は成功してほしがっている
学校の先生は生徒に何か挑戦させる際に,「失敗してもいいよ」「失敗しても大丈夫」「失敗してもそこから学べるよ」など,生徒が失敗することに対して前向きな言葉をかけることが多いと思います。自分も例外ではありません。
では生徒はこれらの言葉掛けから本当に「失敗してもいい(から思い切って挑戦してみよう)」と思えているのでしょうか。
冒頭の疑問を発した先生は「先生は成功してほしがっていると子どもは考える」と言いました。自分もこの意見に同意します。「失敗してもいい」といった言葉尻から「成功したほうがいいけど,失敗してもまぁ仕方ない」ぐらいの気持ちは普通に読み取れるだろう,と。
いっそ声をかけるなら「失敗しなさい」ぐらいのことを言わなければいけないのかもしれません。
勿論,言い方・文脈・関係性・それまでの指導との一貫性など色々と考慮すべきことは多いですが,「まずやりなさい,そして失敗しなさい」と言えるといいかもなと思います。
「失敗してもいいよ」は失敗イメージを掻き立てる?
スポーツの世界において優秀な指導者は「三振するな」ではなく「バットに当てろ」,「シュート外すな」ではなく「ゴールを狙え」と声をかけるというのはよく聞く話です。
「失敗事例+否定」で指示を出しても,それは失敗イメージを掻き立ててしまうそうです。確かにサッカー部のGKをしていた身としても,「一点も取られるな」と言われるより「全部止めろ」と言われる方が,いいイメージが湧くなぁと思います。
これを考慮すると,「失敗してもいいよ」は「失敗事例+肯定」であるという点で上のダメなコーチングとは違いますが,結局のところ失敗イメージを喚起してしまうという点では変わらないのではないでしょうか。
ならもう「とりあえず成功を目指そうや!」というテンションで,真剣に成功目指してやらせた後に,失敗した生徒に対して適切なフィードバックが出来ればそれでいいのかもしれません。(上の段落と逆のこと言ってる)
とは言っても,多くの生徒が「成功したい」よりも「失敗したくない」という気持ちが強く,成功を目指して何かに挑戦するというのは口で言うほどたやすくないという現実は否定し難いものです。
「失敗」なしには進まない外国語学習
自分は仮にも英語教師なので,生徒の英語力を高めることも仕事の一部です。
英語学習における「失敗」と聞いて読者の皆さんはどのような事を思い浮かべるのでしょうか。
例えば,英語で話すときに全然言葉が出てこないとか。
テストで三単現のsをつけ忘れたとか。
一生懸命勉強したはずなのに単語を覚えられなかったとか。
色々あるでしょう。
どれも外国語学習の過程で普通にぶつかるものだと思います。
どの教科の勉強でも,というか学校で習わないようなことでも,何かを学んだり,習得したりという過程ではむしろ成功より失敗の方が多い気がします。
そう考えると,(必要以上に)失敗を恐れる人は何を学ぶにしても難しいのではないでしょうか。
ここまで書いてくると,要はマインドセットか?という気もしてきました。
教師が失敗を笑って見せる
自分は意識的にも無意識的にも生徒の前で失敗する姿を見せている。
ALTと喋っているときに言葉が出てこなかった時,文法を間違え倒した時。
単語のスペルを間違えた時。
発音のミスに気付いた時。
「あ,間違えた,ごめんごめん」とか「いやー,やっぱ喋ってる時は文法めちゃくちゃになっちゃうわ,まだまだだね〜」とか「パソコンで打てば勝手に直してくれるんだろうけどな」とか。
生徒に「それぐらいでいいんだ」と失敗を軽く捉えてもらいたい。
できれば,成長の過程の当たり前の光景なんだと。
逆に「重い失敗」があるとしたら,それはもっと人間性とか倫理とかそういうことに関わることだろうと思う。
例えば,ある町で生まれ育ってその町の今と昔を思い浮かべて複雑な気持ちになっている老人の話を聞いて「田舎と都会のどちらが好きか」を二者択一で述べるみたいな。
まとめ
特に何もまとまりませんでした。(目次からここまでジャンプした人ごめんなさい。)
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