『ナラティブでひらく言語教育—理論と実践』 雑感
北出・嶋津・三代(編)『ナラティブでひらく言語教育—理論と実践』を読みました。
高校生の言語学習・言語教育実践から,言語教育研究・言語教師養成まで幅広く言語教育に関わる諸分野におけるナラティブ・アプローチの実践が紹介されています。また,前半は理論編ですので「ナラティブ(・アプローチ)って何?」という人もこの本から入門することも可能かと思います。
どうでもいいけど,表紙めっちゃかわいい。どうでもよくない。かわいい。
個人的に,カラフルな傘が並んでるだけのインスタ映えスポットとか結構好きなので,この本を手に持ってるだけでちょっと幸福度が上がります。
互いに重なり合いながらも,どれもカバーできていない範囲もあり,それぞれ違ったように光を反射する傘たち…。一人ひとりにとっての現実が一人一人の言葉で語られることを暗示しているかのようです,
みたいな高尚な解釈をしたいところですが,とにかくかわいくて好みです。
ナラティブとは
コミュニケーション論などの文献でよく出会う,なんて訳していいか迷う言葉,"narrative"
「物語」という訳が当てられることもありますが,あまりしっくりきません。
ナラティブとは「物事や経験に意味づけをする行為」(p. 3)です。
ただ過去の出来事や経験をストーリーテリングとして語り聴かせることとの決定的な差は,話し手自身の方に出来事や経験からの学び・気づきがあるかどうかです。
語る過程だけではなく,語られた内容を言い直したりまとめたりするなかでも経験が再編成,または再意味づけされ,研究過程のさまざまな段階において意味生成や学びが起きる(p.18)
この時代におけるナラティブ・アプローチの意義
ナラティブ・アプローチが注目される社会的な流れはポストモダニズム的な思想によってもたらされます。
現実の出来事は客観性・再現性・観察可能性だけで捉えることはできず,人それぞれ違った現実を持っており(ポスト実証主義),言葉によって表現される諸概念は社会的に生み出されたに過ぎず必然的に存在するものではなく(ポスト構造主義),そして我々人間は(そんな不完全な)ことばという道具を駆使して現実を解釈します(社会構成主義)。
「現実」を知るための研究が,こういった現実の不確実さを受け入れながらにして行われます。それがナラティブ・アプローチです。
理解できないような出来事が起きたとき,なぜそうなったのか,人間は理由を求めますが,ナラティブは現実をまとめることでひとつの物語として組織化し,混沌とした現実,不可解な現実を理解可能なものにすることができます。(p. 15)
言語教育とナラティブ・アプローチ
本書は日本語教育での実践が後半で紹介されており,理論編も当然そこに導くように書かれています。
「言語教育」についてその目指すべき在り方を「個々の多様なニーズや社会文化的文脈,目的に沿った特化型を追求」(p. 17, 表1-4)としていたり,その実践についても「ローカルな現場や個々の学習者に役立つ内容や方法に即した教育の追求。特殊性,特化型」(同),「社会と言語の関係性」については「社会構造や権力構造と言語教育の関係,社会正義に配慮し,不公平性や人工的な境界を越えていく」(同)とされています。
「4技能(5領域)」「理解する・表現する・伝え合う力」といった言葉で語られる現状の英語教育とは全く異なる視座から言語教育を見ていることが分かるかと思いますが,この日本語教育のことばの問題に本気で立ち向かう姿勢から英語教育が学ぶことは多いような気がします。
ことばは個人のアイデンティティ交渉や社会の構成に大きく関わっているという認識が共有されてきました。もはや,ことばは中立的なコミュニケーションの道具ではなくなったのです。(p. 93)
これは今読書会で読んでいる『民主主義の育てかた』の方の議論とも重なってきそうな気がしています。
ことばとアイデンティティ
6章から14章までの「実践編」はどれも色々と考えさせられる事例が紹介されていましたが,個人的には6章が最もグッときました。
グッときたポイントは,
① 二重に重なることばの学び
② 「書く」ことを中心とした確かな教授-学習サイクル
の2つです。
この実践は中華学校で日本語を学んでいる高校生のクラスで行われた「複数言語環境で生きる自分」を語る作文活動です。
ただ「自分の思ったことを書いてみましょう」という丸投げ作文活動でもなければ,「〇〇字以内で自分の主張とその理由を2つ書きなさい」でもありません。「パラグラフの最初にトピックセンテンスを書くんだ!」とも言わないでしょう。
まずは単元の初めにこの作文を通して何を学ぶのか,何に注意して書けばいいのかを共有し,続いて生徒の発想を広げるために「マップ法」を用いてアイデアを膨らませ,テーマに対する生徒の思考の具体性を増すためにある詩を読ませ,さらにマップを膨らませ,似たテーマで近い年代の学生のスピーチを読んで感想文を書き,より自分の経験と照らし合わせて考えるための視点を得るべく同じ中華学校の卒業生のライフストーリーを読み,ここまで他者を通して考えてきたことを自分の問題に引き戻すために言語ポートレートを書きます。
言語ポートレートとは,人型のイラストに自分と関わりのある複数の言語について書き込むものです。
(https://jmherat.hatenablog.com/entry/20171102/p1 より)
ここまでやってようやく構成を考えて作文を書きます。
書くことはそれ自体がことばの学びです。
石黒(2016)によると,子どもは書くことを求められることによって自分の生活経験を問い直し,すでに分かっていると思っていた世界をことばをとおして知り直していくといいます。(p. 98)
▼石黒(2016)はこちら
「複数言語環境で生きる」ということを自分自身のアイデンティティと重ねて様々な形で実感している生徒たちが,確かな授業デザインに支えられて「書く」ことを達成していることで,二重に「ことば」について考え,学んでいます。
この実践における日本語学習者たちにとって「複言語環境で生きる自分」のようなアイデンティティを揺さぶるテーマは,自分の見ている中学生・高校生たちにとってどのようなものなのか。そこがまだ見えていません。
「英語を学ぶ意味」みたいなテーマを安易に選ぶのは,それこそ教師の権力性を感じている生徒たちに対しては,ちょっと危険を伴う気がします。
外から与えられる「英語を学ぶ意味」レパートリーの内のどれかを強制的に自分の中に取り入れさせられてしまうというか,なんというか。
人の成長とナラティブ
また,第2章の「言語学習者・教師の成長を捉えるナラティブ」は理論編の中でも特に示唆的でした。
目の前にいる多くの学習者たちに対して,「英語学習のモチベーションがある/ない」「英検(n級)を持っている/持っていない」「海外経験がある/ない」「Advancedクラス/Standardクラス/Basicクラス」みたいな属性を意識的にも無意識的にも与えることがあると思います。自分はあります。
でも一人一人のモチベーション(の無さ)は違うし,英検を取るという経験も,海外の経験も全て一人一人違った経験としてナラティブが構成され得るはずです。
我々教師は「一人一人の生徒と向き合って」「一人一人の声を聞いて」といったことをよく言います。
これもナラティブ・アプローチ的な姿勢と言えるかと思いますが,もう一歩踏み込みたいです。
序盤にも書きましたが,ナラティブとは話し手自身の方に出来事や経験からの学び・気づきがある語りです。
つまり,我々教師が生徒一人一人と向き合って,彼らの話を聴く中で,彼ら自身に気づきが生まれることが求められます。
そのような生徒の語りを生み出すためのヒントを理論・実践を通して得られる本書を読みながら,オンライン授業の後に生徒とオンライン面談をしていて,まだまだ生徒のナラティブを引き出せていないな…と苦心する日々です。
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