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松岡亮二(編著)『教育論の新常識 格差・学力・政策・未来』

学校教育における「格差」「学力」「政策」そして「未来」に関わる計20もの章があり,どの章が「必読」であるかは人によるところはあるでしょうが,私の雑な感想を一言で言えば,学校教育の話をする可能性のある人全員に読んでもらいたい本です。

GIGAスクール構想であれ,コロナ対応のオンライン授業であれ,大学入試であれ,21世紀型スキルの教育であれ,何を話題にするにしても本書の内容(またはそれに近いもの)を一度以上読んでいるかどうかで対話の質が全く変わってくるでしょう。

そして公教育に何かしらの形で関わろうとするのであれば,どの章に対しても「私には無関係だ」とは言えません。

一応「ゆるり英語教育」という名前でやっているので,英語教育について考える上で特に重要だと思われる3つの章について簡単に紹介したいと思います。(繰り返しますが,中心的な関心が「英語教育」であったとしても,以下に紹介する章以外は読まなくて良いことにはなりません。公教育全体に蔓延る様々な問題を概観した上で英語教育についても語られるべきです)

8章 英語教育

まず,寺沢拓敬先生の「「グローバル化で英語ニーズ増加」の虚実」は必読of必読です。寺沢先生の『日本人と英語の社会学』『「なんで英語やるの?」の戦後史』『小学校英語のジレンマ』を読んでいる人ならなんとなくその内容は想像がつくかもしれませんが,最新の書籍ということでコロナ以降の各産業における英語ニーズの増減について書かれています。

一言で言ってしまえば,日本において「グローバル化によって英語のニーズが高まる」ということはこれまでも無かったし,しばらくの間は無さそうだということです。

生徒に「なんで英語やるの?」と聞かれたり,保護者に英語教育の重要性を説いたりするときに「今(これから)はグローバル化の時代」ということを言っている英語教師はまずか本章だけでも,というか上に挙げた3冊のどれか一つだけでも読んでもらいたいです。

それすら厳しければ,手前味噌ですが自分の記事でも少しはお役に立てるかもしれません。

英語教育に関する「幻想」とも言うべき「常識」は色々あるでしょうが,「グローバル化で英語のニーズが高まる」はその最たる例だと思います。

尚,寺沢先生の論考は「日本語母語話者が日本で生活をする上で英語は(意外と)必要性が低い」という主張(というか客観的な証拠の提示)がメインであって,「海外に出て,自分の可能性を広げる上で英語学習は大事だ」みたいなことまで否定するものではありません。

あくまでも英語教育政策についての議論であり,その政策を立てる側が「日本人の英語ニーズ増加」という嘘を根拠にしていることへの批判です。

ただ,政策立案においては政策立案者の人生経験・社会観だけで決めることは望ましくなく,国全体のデータを基にして行われるべきです。

そのことに対する理解も本書全体によって深まることと思います。

7章 英語入試改革

阿部公彦先生の「ぺらぺら信仰がしゃべれない日本人を作る」も英語教育について語るなら外せません。特に昨今の「入試にスピーキングを」論争に代表される行政側のスピーキングごり推しを批判的に捉える議論の大前提を与えてくれます。「ぺらぺら信仰」(から生まれる英語教育政策・実践)は上で触れた「幻想」の一つとも言えるかもしれません。

まず我々が英語を「話せない」と感じる場合の多くは,英語でのコミュニケーションの場で会話に取り残される経験をしたときです。

なんとか会話に参加しようとして口を開いてみると,案外みんな自分の言葉を聞いてくれて,「会話に入れた〜」と思えるものです。

もちろんこれは「一般論」に過ぎませんが,それでも「話せるようには話す練習を」という論理がイマイチであること(仮にそこまで思わなくても,少なくとも完璧な論理ではなさそうであること)はわかるでしょう。

阿部先生は話すためにこそ聴解の重要性を指摘しています。

また,「四技能」という英語教師にとってもはや「日常語」とも言えるレベルになった言葉があります。

一応書いておくとReading, Writing, Listening, Speakingの4つの言語技能のことを言います。

この「四技能」という言葉の面白くもあり,少々厄介でもあるのは,この言葉が日本の英語教育で使われるときには,ほとんどの場合スピーキング・リスニングの技能を念頭に置いているということです。

「四技能」という言葉は「四技能を均等に鍛えましょう。今はリーディングに偏りすぎです」というふうに「四技能均等」そして「オーラル推進」の合言葉になっているのです。

英語教師の皆さんは「四技能を均等に鍛えるべきだ」と思われるでしょうか?

であれば,こんな数十PVからせいぜい数百PV程度の本ブログに目を通してくださるほど「読む」ことをされているのだから,それと同じぐらい「書く」こともされているのでしょう。そして読んだり書いたりした分だけ人と「話す」時間も取り,人の話を「聞く」こともやっていますよね?


やっていますか?


言語使用を四分割する意味があるかどうかは一旦問わないことにして,「四技能均等」なんて母語でも普通にやってないわけです。

「あの人は話すと無愛想だしよく分からないけど,文章力はすごく高いよね」とか,「僕は活字は苦手だから知識は動画とか会話の中で得るタイプ」とか,色々技能の得意・苦手はありますよね,普通に。

そういう「言語」とか「ことば」についての当たり前のことをきちんと考えた上で議論しませんか?

(本章ではこれらの問題に加えて,話すことと文法学習についてや,話せるようになるためのリスニング練習についても書かれています。)

6章 国語教育

伊藤氏貴先生の「「論理国語」という問題:今何が問われているのか」も英語教員にとって決して無関係ではないと思います。

正直に言うと,私は少し前までは「国語教育は地に足ついたことやってて羨ましいなぁ〜」なんて思っていました。

でも国語は国語でいろいろな問題を抱えていることは,国語教育を専門とする小学校の先生と読書会で毎週話すおかげでわかってきました。

この章では「論理国語」という高校2,3年生に新たに導入された教科の問題を取り上げています。

ここでは政策立案者側の「読解力」という概念の理解の浅さが鋭く指摘されています。

「論理国語」には文学作品を含めてはならず,「文学国語」という科目との線引きが明確にされています。

これに違和感を感じる読者の方も多いでしょう。その違和感を伊藤先生はこう説明しています。

この両者が排他的関係に設定されているということは,「文学」には「論理」がないと言っているようなものだからだ。「文学」作品を,たんなる感覚でなく,「論理」に基づいて読解するのが「国語」という科目の一つの意味だったのではないか。(p. 90-91)

本章は上で紹介した二つの章と同じく「「学力」と大学入試改革」というタイトルの第2部に入っていますので,主に国語科の大学入試改革について語られているのですが,このnoteではそこは一旦置いておいて,「読解」ということについて考えるための素材としたいと思います。

英語の授業において,「長文読解」とか「リーディング」とか呼び方はどうでもいいんですが,文章を読むときに気にされるのは「単語と文法の知識を組み合わせて正しく情報を読み取り,後に付された理解の正誤を問う問題に答えられるか」ではないでしょうか。

一方国語の授業では,最終的に問いに答えさせられて正誤を測られることは確かにあったかもしれませんが,文章を読む過程で様々な解釈の可能性を吟味したり,筆者の意図は何か,読み手としてどう感じるか自分の持っている知識や価値観と合致するか,といったことを複数人で議論したりしたことのある人も多いでしょう。

データや情報を「読む」と言っても,ただ与えられたものを鵜呑みにするのではなく,他の状況やこれまで得た知識と結びつけながら,その情報を疑うところまで含めて「読解」するのでなければ意味がない。(p. 100)

このようなことを英語教師として,英語の授業の文脈でビシッと言えるでしょうか。

「読む」という行為において,国語教育は英語教育と比べ物にならないほどの「深さ」を持っていたと思っていたのですが,その国語教育でさえ「読む」ことが脅かされているようです。

国語教育は「読む」とはどういうことかを改めて捉え直し,より良い教育政策に反映させていく戦いをしていく(既にしている)と思います。

英語教育の人間としてもその戦いは可能な限りフォローしながら,英語教育においても「読む」ということをより深く捉えていきたいところです。

でなければ,阿部先生の章で「四技能」という話が出ましたが,「読む」という技能が「単語力と文法力の足し算であり,他の3技能より単純な技能である」とか言われかねません。

というのは半分冗談ではありますが,これまでの英語教育政策論争の破茶滅茶さを鑑みると,これは全然大袈裟なことではないと私は思います。

とにかく読んでほしい

もちろん全ての章が明日の英語授業に悩む英語教師に直接的に関係するわけではないですが,それでも教師として生きる限り,日本の公教育に関わる限り,学校教育に対して何かしら発言する機会を得る限り,本書の内容は最低限知っておくべきだと思います。

私自身,深いところまで理解した上で「本書の内容は最低限」といっているのではなく,本書に含まれる多くの領域について素人である自分はこの本を読んだ今「正直,まだ自分の言葉で語れることはない」という状態になっています。

だからこそこの記事で触れていないほとんど章について私がnoteに書くことは何もないのですが,それでもいいのではないかと思っています。

教育について,教育のプロでもあろう者が,「妄言」ばかり吐くことは望ましくありません。

こんな複雑なことがあるのか…。ちょっとまだ勉強不足で何も言えないなぁ…。という気持ちになることがまずは大切だと思います。

もちろん「俺には分からんからもうやめた,知らん!」となっては意味がないと思うのですが,きっと本書を真摯に読めばそういう態度ではいられないと思います。

また,EdTechについて論じられた11章など,今まさに学校教育全体に大きな影響を及ぼしている事象に対して,一歩引いて冷静に客観的に見つめる視点が与えられます。

「Society5.0」とか「個別最適化」とかいう言葉を聞いて,「新しい時代の教育になるんだ,ワクワク!」みたいな人は,とりあえずこの11章だけでも読んでほしいですし,その胡散臭さを言語化できない人にも同じく有益だと思います。

少し前まで「主体的・対話的で深い学び」と散々言っていたのに,AIに管理された,個別的で最速・最適な学びという(歪な)学びの概念がこんなにも急速に広がっていることに疑いが持たれないはずがないとも思いますが。



普段(これが原因で職員室に居づらくなると嫌なので)自分のnoteを勤務校の先生方にはあまり宣伝しないのですが,この記事については宣伝しようか迷っています。

この記事というより本の宣伝ができればそれでいいのですが。

勤務校の先生に宣伝する勇気が湧いた時のために,普段わざわざ書かないことを一応書いておきます。

このnoteで発信している内容は全て個人の見解であり,所属機関とは一切関係ありません。


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