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現代における「蕩尽」としてのジャム作り - 読書感想 - ジョルジュ・バタイユ_呪われた部分

はじめに

このnoteはジョルジュ・バタイユ著『呪われた部分』を読み、本書に登場する「蕩尽」という概念を自分の日常の中に感じたことがあったのでそれを記したものだ。

「蕩尽」とは何か?

財産を湯水のように使いはたすこと
(Google検索)

とあり、古代アステカ人の宗教儀式の際に捧げられた大量の生贄であったり、昔のチベットのように国民の収入の大半を僧侶への喜捨に使用したり、中世の貴族階級がおよそ実用の範囲を超えた豪勢な調度品を作って比べあったり、インディアンにおけるポトラッチ(対抗的贈与)であったりを指すようだ。

また、大変興味深いことに戦争もまた蕩尽の一形態であると本書に書かれている。

都度買えばいい現代人

そもそも「ジャムを作る」という行為は収穫された果物を消費しきれないときに用いられる食品加工手段だ。

輸送技術や冷蔵技術が発達した現代の我々の生活の中にはあまり「消費しきれない」という状況は発生しにくい。
なぜなら消費しきれる分だけをその都度買えばよいからである。
また、「ジャムを使用したいから作る」という状況に関しても同様の理由で必要になれば都度買うほうが合理的であるという事になる。

作ってみると見えてくるコスト

ジャム作りの朝は早い。
まず果物を買ってこなくてはいけないのだ。
今年はアメリカのハリケーンの影響で国産のイチゴが輸出価格で取引されたため、例年より半月遅れで値段が下がってきた。
「ジャムは果物を消費しきれないときに用いられる食品加工手段である」
この原理から外れてしまうのも面白くない。
自分の都合だけでは私はジャムを作らないのである。

次に保存用の瓶を買いに行かなければならない。
ジャムはまだ温度が高いうちに煮沸消毒した瓶に入れて密閉することで長期間の保存が可能になる。
したがって耐熱温度がある程度高く、蓋の密閉性が高い瓶が必要になるのだ。
ジャムの保存に適した瓶は100円均一などの低価格を売りにした店舗にはない可能性が高いのである。

最も大きな部分は仕込みと調理に関わる時間である。
私は「余計なものはたとえ水でさえ加えない」というこだわりをジャム作りに関しては持っている。
だから果物の重量に対して約半分の重量にもなる大量の砂糖を溶かすために前日の晩から準備をする。
6パックほどのイチゴのヘタや傷んでいる部分を取り除くのに小一時間ほど掛け、そこに砂糖を投入する。浸透圧の関係でイチゴから水分が出てきてイチゴが浸かるくらいまでの水が出てくるまでおよそ一晩ほど掛かるのだ。

それを翌朝以降に火に掛けるのだが、初めはひたすら吹きこぼれないようにアクを取る作業が続き半分くらいの量になるには1時間ほど掛かる。
そこからは頃合いを見計らうのだが、水分が少なくなってきているので目を離すと焦げてしまう危険性が出てくる。
目を離せない時間が続くのである。

ようやく好みの粘度になったところで、同じタイミングで煮沸消毒が終わるように準備しておいた瓶を準備し熱々のジャムを詰めていく。
詰め終わった瓶をすぐに逆さまにし、少ししてから少しだけ蓋を開けて空気を抜く作業があるのだが、この作業中に先述したような不適な瓶を購入した場合、熱々のジャムが噴き出すという事故が起きてしまう。
ジャム作りは時に危険も伴うのだ。

無事にジャムを瓶に詰め、瓶内の空気を抜き終わると、今度は瓶ごと煮沸する。
腐敗に関係する菌を死滅させるためには15分ほど煮沸する必要があり、この時間もまたなかなかに煩わしい時間だ。

ジャム瓶の煮沸殺菌が終わるやいなや、今度は冷却しなくてはいけない。
殺菌中にシンクに水を貯めておき適度に水が循環するようにしておき、熱々ジャム瓶をそっと沈めていく。
だいたい15分ほどで粗熱が取れるので、それをキレイに拭き冷蔵庫で保存する。
ここまで来てジャム作りはようやく終わるのだ。

準備から含めると丸二日くらい掛かっている。
それだけ時間を掛けて、スーパーで1瓶400円くらいの値段で売ってる量のジャムを4瓶ほど作れるのである。

冷静に考えれば考えるほどどうにも採算が合わない。

ではなぜジャムを作るのか

そうすると私が「ジャムを作る」という行為はなかなかに現代人の行動原理からは外れた、どうにも効率の悪い行動なように感じる。
そこにもしかするとバタイユの言う「蕩尽」という概念が関係してくるのかもしれない。

現代人は昔に比べるとはるかに時間が余っていると言える。
各家庭の蛇口を捻れば飲用可能な水が出て、徒歩だと何時間も掛かるような距離をほんの数十分で移動できるようになったからだ。
その中で「時間を湯水のように使うこと」に一定の意義や快楽のようなものを見つけているように感じるのだ。

私にとってのジャム作りは「蕩尽」であったのだ。

昔から人類は時間が余っていく生き物なのかもしれない

私にとってのジャム作りは蕩尽であり、余った時間の処分方法だったのだが、もしかすると人類という生き物は加齢によってどんどん時間が余っていく生き物なのかもしれない。

本書の中で、

生命あるいは富は無限定に豊穣であることができず、生命あるいは富が成長をやめて消費に転じなければならない瞬間がやってくる (第五部第2章)

とあるように、我々が蓄えたあらゆる富(物質や時間などさまざまな形のもの)は消費に向かう運命であるように感じる。
その宿命というか法則のようなものとどう付き合うかがもしかすると人生を楽しく納得して過ごすためには大切になってくるのかもしれない。

例えば、私にとっての「ジャム作り」のような蕩尽をそれぞれが探し出せることを祈っている。

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大阪で音楽関係の仕事をしています。 アニメや漫画、TVゲームからボードゲームまで広く遊びが好きです。