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私の生き様【一児のパパが公務員を辞めて挑戦する理由】

こんにちは、脱公務員・貿易家・イベント開催家・講演家のたくやです。2021年3月28日、私は講演家としてデビューしました。

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私の夢は「挑戦が挑戦を生む世界をつくる」こと。自分の挑戦を広く発信する方法として、講演家の道を進むと決意しました。

今回は、先日私が行った講演会の内容(生き様)を、このnoteで紹介させていただきたいと思います。


■ 自己紹介

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ほとんどの方が私のことを知らないと思いますので、ここで簡単に自己紹介をさせてください。
私は生まれも育ちも兵庫県川西市で、現在も川西市に妻と7ヶ月の息子、1歳のポメラニアンと一緒に暮らしています。
小さい頃からとにかく目立ちたがり屋で、人前に立つことが大好きな性格でした。そんな性格もあって、こうして今皆さんの前で講演をしているのだと思います。
平成21年4月から、大阪府警で約12年間勤務をしてきましたが、「人生一度きり」警察官という肩書きを捨て、自分の夢を追いかける決断をしました。


■ 挑戦する理由


なぜ私が警察官を辞めるのか。それは、ずっと後悔ばかりだった自分の人生に終止符を打ちたいと思ったから。そして純粋に「かっこいいパパになりたい」と思ったからです。
決して、警察官という仕事が嫌いになったわけじゃありません。ただ20代後半からずっと「この仕事は天職なのだろうか?」とずっと自問自答してきました。何度も自分の過去を振り返りました。そしてこれから先、自分がどうありたいのかを何回も考えました。その結果、「ここで決断しなければ一生後悔する」と思いました。だから今、警察官の制服を脱ぐことにしたんです。


■ 後悔ばかりの人生に終止符



まず初めにお話したいことは「後悔ばかりの人生に終止符を打ちたかった」という思いです。皆さんは、周りに流されない自分の強い意志を持って生きてますか?周りに「これがいいよ」とか「君にこっちの方が向いてるよ」って言われても、自分の意志を貫くことができてますか?

私にはずっと自分の意志がありませんでした。周りが作り上げた「たくや」として生きてきたから、自分自身も「たくや」という人間がわからないまま、何十年も過ごしてきました。だから、これまで人生における大事な選択は、いつも「周りが求めているのはどれだろう?」という思考から入って、物事を決定していた。だから、そんな人生に終止符を打ちたかったんです。

この自分の価値観や人生観を決めた出来事が、中学生の頃まで遡ります。中学時代に経験したあるトラウマで人に嫌われることが怖くなりました。だから、ずっと周囲の求める「たくや」になるために、今までずっと時間を使ってきました。まずはそのことからお話させてください。


■ 中学時代に経験した強烈なトラウマ


私が中学1年生の頃、当時、小学校から一緒だった同級生の女の子と人生で初めて付き合うことになりました。中学1年生なんて恋愛のやり方をわからなかったし、当時は携帯電話もなかったので、コミュニケーションをとる手段がもありませんでした。だから自然と距離が開いてしまったことで、私から別れ話を切り出すことになりました。

すると翌日から彼女が急変。友達複数を連れて私の自宅に押しかけてきたり、私と学校ですれ違えば「きっしょ!」とか「チッ!」って舌打ちして・・・それだけならまだよかったんです。

彼女は当時、学校内でもボス的存在というか、周りに気を遣わせるような存在で、みんな彼女のことをビビってました。だから、学校中の女子に私と一切口を聞かないようにしたり、すれ違えば「きっしょ!」というように仕向けたことで、私は本当に学校中の女子から無視されるようになりました。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、本当に誰も私と喋ってくれなくなったんです。昨日まで仲良く話してた女友達でさえも。

この時、私がこの時感じた疎外感は、私の周囲に対する信頼感を完全に奪うと同時に、このトラウマが「人に嫌われるのが怖い」という考えを生みました。

その後の中学生活でサッカー部ではキャプテン、学校では生徒会に入るなど、とにかく「人前に立つ」役割を担ってきました。人前に立つ機会が増えたことで周囲からは、「ほんま生まれながらのリーダーやな」とか「運動も出来て、リーダーシップもあって羨ましい」などと言われ・・・とにかくみんなにもてはやされ、一目置かれる存在になったが故に、またあの「トラウマ」が再び蘇ってきました。

「嫌われるのが怖い」「またみんな離れていくかもしれない」

中学入学早々、学校中の女子から嫌われ、ようやく時間をかけて手に入れた「信頼」を壊すのが本当に怖かった。この信頼だけはもう絶対に失いたくない。本気でそう思いました。

そう思えば思うほど、周囲の求める「TAKUYA」像に自分を合わせていき、気づけば私自身が本当の「TAKUYA」がわからなくなりました。

そしてこの頃から、完全に周囲の私に対するwant to、私の中のhave toで谷本拓也を作り上げ、「他人が作った虚像」で人生を歩み始めることになりました。



■ 「公務員しか知らない」という不安


大学3回生の頃、周りが就職活動を行う中、私は最初から「公務員」になると決めていました。周囲から「正義感が強いから警察官とか消防士に向いてそう」と言われ、他人の世界で生きていた私は、勝手に周りが、「警察官や消防士になって欲しいと思ってる」と錯覚し、「警察官や消防士になることが自分の使命なんだ」と思っていました。完全に自己暗示です。

それからは必死で勉強しました。めちゃくちゃ勉強した。遊ぶ時間も削って、とにかく公務員になるために。そして大阪府警で採用が決まった私は、平成21年4月に大阪府警察学校の門をくぐりました。

親も、彼女も、友達も、みんな喜んでくれました。周囲のリアクションを見て「これで、よかった。またこれで周囲の期待に応えることが出来た。これで俺から離れない」って本気で思ってました。

警察官になってからもとにかく必死でした。もともと負けず嫌いな上、ちっぽけなプライドで周りに「出来ない奴」と思われたくないので、寝る間も惜しんで必死で勉強して、休日も上司に黙って出勤し、過去の資料を見返しながら勉強したりして・・・それこそ家族時間も犠牲にしながら必死で生きてきました。

周りからの評価ばかり気にして、周りに嫌われないように振る舞って、上司からの飲み会の誘いは絶対に断らず、そこでまた家族時間を犠牲にして。そうやってやっていけば、自然と組織のレールに乗って、階級が上がって、周りももっと期待してくれてるって本気で思ってました。

その後、ずっと希望していた部署に配属され、トントン拍子で憧れの本部勤務にまで辿り着いた。これから先の警察人生は安泰だって、自他ともに認めてました。

でもこれまでの警察人生、ずっと楽しくなかった。むしろ辛かった。

私のいた部署は極めて秘匿性の高い部署だったので、仕事の内容は家族にも言えませんでした。急に土日が仕事が入ったとしても、帰りが遅くなったとしても、旅行中に電話がかかってきたとしても。家族に仕事の内容を話すことは許されてませんでした。

でも家族に胸張って自分の仕事のことを話せないというのが、内心とても辛かったです。いいことがあったり、嫌なことがあれな共有したいと思ってた。仕事をもっと理解してもらいたかった。でもそれが出来ませんでした。

何だったら、ずっとこうやってツイッターや人前に立って情報発信をしたかった。でも業務の特性上、どうしても表舞台に立つことは出来なかったし、交友関係も選ばざるをえなかった。だからSNSで顔出しで発信することは愚か、コミュニティーに入ることも億劫になってたし、そんな人生が心からつまらないと思い、そんな自分の生き方に嫌悪感すら感じるようになっていました。

だって人生は一度きりなのに。ずっと日陰で生きていくことに満足を感じる人であればそれでいい。でも自分は違う。目立ちたい。日の当たる場所で明るく働きたい。そう思うようになりました。

そこからは「これが人生をかけてまでやりたい仕事なのだろうか?」と真剣に考えるようになった。



■ 現状を変えるための行動


いろいろ考えて抜いて出した結論が「後悔ばかりの人生はもう嫌だ」ということ。周りに流されず、自分の意志で物事を決め、自分の思い描く未来を生きていきたい。

今までずっと他人の思い描く世界に合わせて生きてきた私は、人生におけるあらゆる選択の場面でことごとく「周りは俺にどっちを選んで欲しいんだろう」と考え、周りの期待に沿うような選択をずっとしてきました。

だからずっと「本当はこっちを選びたかった」とか「本当はこれがやりたかった」ってずっと後悔ばかりしてた。未来ではなく、ずっと過去の後悔ばかり見てた。しかもそれを周りのせいにして。周りの環境を言い訳にして、失敗した時に自分が傷つかないようにしてた。

でも、人生はたった一度しかない。そう思った時に、このまま後悔ばかりの人生だと、きっと死ぬ直前まで後悔し続けるんじゃないかって思いました。

だからまず行動した。

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私のモットーは「知・覚・動・考」。これはGACKTさんの書籍にあった言葉で、「情報収集し、知識を手に入れたら考える前に行動しよう」という意味。これが「知・覚・考・動」になってしまってはだめ。考える前に先に動く。動き始めてから考えればいい。

そこで私は、自分の肩書きを最大限活用し、経営者と会うことにしました。 

警察の仕事の中で企業向けの防犯指導というものがあります。これは、企業があらゆる犯罪(社員による情報漏洩、サイバー犯罪等)に遭わないように、企業として講じるべき対策を警察から提案し、犯罪の未然防止を行うもの。私はこの業務を通じて会社経営者とお話する機会がかなり多かったので、これを使わない手はないと思いました。もちろん防犯指導という目的はきっちりと果たした上で。

経営者の方々と話す中で、皆さん口を揃えて仰っていたのが

①「とにかくたくさん本を読みなさい」
②「時間を自分で作りなさい」
③「とにかくやってみなさい」
④「自分で自分を高められる環境を作りなさい」

まずは、上記4つについて行動を起こすことにした。


【とにかく時間を作って勉強する(本、Youtube)】

これに関して、次のアクションを行った。

・朝の起床時間をいつもより1時間早めて、警察署近くのカフェで本を読む
→本は自己啓発や経営者の経営理念等さまざま(計算してないけど、多分数十万くらい投資してるし、いまだに読み切れてない本がたくさんある)
・行き帰りの片道20分で、Youtubeで勉強(その時にAKIOBLOGというYoutuberと出会ってかなり影響を受ける)

自信がないなら勉強すればいい。時間がないなら作ればいい。言い訳の要素を徹底的に排除していきました。


【とにかくやってみる】

読んだ本の中で「輸入ビジネス3.0」という本と出会いました。

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この本を見て衝撃を受けた。そして「貿易家」を自分の仕事にしたいと思った。この本が提唱する「貿易家」とは、世界中にある日本にまだないワクワクする商品を見つけ、海外メーカーと直接交渉する。そして期間限定の独占販売権を貰えれば、認知拡大とテストマーケティングのため、日本のクラウドファンディングで商品を販売するというもの。これによって、物販を行う上で一番の懸念事項となる「在庫を抱えるリスク」がない。これは、ビジネス初心者としてかなり魅力的なものでした。

そして何より、海外メーカーの日本への挑戦を一個人で全力サポートできるという「貿易家」というビジネスモデルに、ひどく感銘を受けました。私自身、昔からずっと海外志向が強くて、警察官として外国の大使館で勤務したいという希望を持っていたくらい海外で働きたいと思っていたので、海外と日本を繋ぐこのビジネスに魅力と可能性を感じました。

その後、著者の大竹秀明さんをSNSやネットで探してフェイスブックで何度もDMを送りコンタクトを試みるも、反応は全くなかった。それでも私は諦めなかった。

次に、実際に大竹さんが主催する「貿易塾」の元塾生である、女性をSNSでで探し出し、直接DMを送ってコンタクト取ることに成功した。彼女から最本格的にコンサルを受けるため月に55000円を投資。正直、コンサルの進め方やものの言い方には不満があったが、これも勉強だと思いとりあえず2ヶ月間コンサルを受けた。

その後、今年の1月から大竹秀明さんが、貿易塾の第2期を開講すると大竹さんのメルマガで配信があったことから、すぐに彼女とのコンサル契約を打ち切り、38万円払ってそちらにシフトチェンジ。現在もそのコンサルを受けています。

その後も、ビジネスに関してSNSやネットから情報収集していたところ、会社経営している中学時代の友人の存在を知った。そして彼に会うためにGoToトラベルを使って彼の住む鎌倉へ。


彼は「パパを育児の当事者に」という理念のもと「株式会社DADMAN」という会社を立ち上げ、ファザーズバッグを自らデザインし、クラウドファンディングで販売。見事成功し、現在改良を重ねて一般販売に向けて日々奮闘しています。

彼の「パパを育児の当事者に」というコンセプトもさることながら、思い立ったら即行動に移し、結果を出す姿勢にめちゃくちゃ感銘を受けた。彼自身、美容師になるという夢を追いかけて東京に行き、大都会東京でひとり闘い続けていたが、いろいろな出来事が重なって美容師になるという夢を諦めた。そんな彼だからこそ、このブランドにかける思いは相当なものだと思うし、私は彼の挑戦をずっと応援していきたい。彼なら日本の育児環境を変えてくれる。育児におけるパパの概念を商品を通じて変えてくれると信じています。

こうして行動に移すことで、過去ではなく自分の未来を変えようというマインドに変わった。今までも自分なりに人生設計は持っていた。定年まで勤め上げ、60歳から残りの40年近くは自由に生きたいって思ってた。だから60歳までは歯食いしばって警察官やっていこうって。それが自分にとっても家族にとっても幸せなことだと信じていた。

しかし、警察官という仕事をしていると、良くも悪くも世の中の現実を目の当たりにする。志半ばで亡くなった人、自殺した人、殺された人・・・自分が今、何も考えずにただ何となく生きている「今日」は、誰かが本気で生きたかった「明日」なんだって。

そう考えた時に、色んな感情や考えが自分の頭の中を駆け巡った。

「自分は60歳になった時、本当にやりたい事が出来るのか?」
「本当にできる環境にいるのか?」
「病気は?」
「妻や子供も元気なのか?」
「その時の精神状態は?」
「貯蓄は?」
「年金はもらえているのか?」

こう考えた時に、未来を考えず、過去ばかり見て生きる人生は嫌だって思った。だからもう、他人の思い描く「TAKUYA」ではなく、自分がなりたい「TAKUYA」で生きていこうって。この歳になってようやく気づいた。

そしてこの時に、自分の警察人生のボーダーラインを40歳に設定した。40歳までにやりたいこと見つけて、転職しようと決意した。



■ かっこいいパパになりたい


【第一子誕生】
今、私たちには7ヶ月になる息子がいる。太陽に向かって真っ直ぐ明るく生きて欲しいという意味を込めて「葵生」と名付けた。

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34歳にしてようやくパパになれた。でもここまでの道のりは決して平坦ではなかった。

妻とは17歳で付き合ってから今日まで17年という人生の半分以上を一緒に過ごしてきた。24歳で入籍して、25歳で結婚式挙げて・・・周りの誰よりも早く家庭を持った。

当時はまだ「お互いまだ二人だけの時間が欲しい」って思いから子作りはそんなに急いでなかった。でもそこからは私が東京に2年間単身赴任に行ったこともあって、なかなか互いの子作りのタイミングが合わず、30歳をすぎてからようやく妊活を始めた。

でもなかなか妊娠出来ず、焦り始める中、周りからは二人目が生まれたという知らせが届く。ある日、精液検査したら、私の精子は普通の人よりも圧倒的に少ないって言われた。めちゃくちゃへこんだ。自分は男としての役割を果たせないんだって。

地元の友人の家にいけばみんな子供連ればかりで、私たち夫婦だけ子供がいないなんてことも普通にあった。そのうちみんなも私に気を使い始めて「子供はまだ?」って会話もなくなり、私たちから敢えて子供の話をすることもなく。そうやって周囲の家族とも疎遠になっていった。というより、自分たちから距離を置いたという方が正しいか。

テレビで赤ちゃんの映像が流れたら(関西圏に住む人ならわかる「めばえ」とか)、なんとなく気まずい雰囲気になって、SNSで育児の投稿見たら自然とSNS閉じて・・・そんな状況が1年以上続いた。

人工授精、体外受精を何度も試しては何度も失敗し、その度に妻が傷ついて。そんな日々を過ごしていたので、子供に対する想いは日に日に強くなっていった。「パパになりたい」って。

そして体外受精3回目の結果を聞きに病院に一緒に行き、病院から出てきた妻が目を潤ませながら「パパになるんだよ」って言った時のこと、今でも鮮明に覚えている。今でもこの話をすると涙が出そうになる。

病院の前で二人で抱き合ったあの日から、本当に見える景色が変わった。人生が大きく変わった。

そして2020年8月19日、予定日通り元気な男の子が生まれた。この時、助産師さんに「お父さん、赤ちゃん抱きますか?」って言われたけど、頑張った妻へのリスペクトが強すぎて、先に妻を抱きしめて一緒に泣いた。命をかけて産んでくれた妻には、本当に感謝しています。



【妻への退職報告】

奇跡的に出産には立ち会えたが、コロナの感染防止で入院中の妻と息子との面会は1日1時間と限られていた。

出産後、数日お休みをいただいた私は、時間もあったのでパパとしてのあり方などをいろいろ妄想していた。息子をどうやって育てていこうかと考えた時に、頭の中に「英語に触れさせてワールドワイドな人間になって欲しい」「サッカーをやらせて、プロサッカー選手になって欲しい」「会社勤めじゃなくて、自分で経営して世の中にいろんな価値を提供して欲しい」「なんでも怖がらず、まずは挑戦して欲しい」というのが浮かんだ。

でもその時、ふと思った。「これって全部、自分が諦めた夢じゃないのか?」って。「俺は自分の諦めた夢を子供に背負わせようとしてる。それは父親として最低だ。パパだって今から挑戦したらいいんじゃないか。パパが挑戦する姿を息子に見せることが本当のパパなんじゃないか」って思った。

翌日、妻の退院手続きを終え、妻の実家に行った後、息子をベビーベッドに寝かせて開口一番

「俺、警察官辞めるわ」

妻は完全に目が点。最初は「えー」って驚いてたが、特に拒絶するような反応は見られなかった。だから辞めた後、自分が思い描く人生を妻に話した。貿易家になって、海外旅行がてら一緒に世界中を飛び回って、自分の見つけてきた商品が有名小売店の店頭に並んで、稼いだお金で大きな家建てて、庭でワンコ走らせてって。

後日、妻から「今の貯金はこれくらい。退職金もあるやろうから、どれくらいあったら1年過ごせる?」って。もうめちゃくちゃ感謝した。本当に妻には感謝してるし、この先、この人を今以上に幸せにしたいって本気で思った。(妻がなぜ自分の挑戦を後押ししてくれたのかは、理由が深かったので後ほどお話します)

後は辞める時期を見定めていた。今年度か来年度か。


【初めて「死」を覚悟】

ある日、あまりに頭痛がひどかったので、近くの脳神経外科に行ったら、脳に動脈瘤があると診断された。今すぐ手術が必要な大きさではないが、今後はこれとうまく付き合って行かないといけないと言われた。父も母も血管系の病気で一度死にかけているので、自分もいつかそうなるんじゃないかと思ってたけど、やっぱりだった。

この時、初めて「死」というものが身近に感じた。今まで自分がいつ死ぬかなんて考えてこなかった。漠然と80歳くらいで死ぬんやろなぁって。けど、この結果を聞き、この先数年で動脈瘤が破裂して死ぬ可能性があった。あるいは手術が成功しても体に何らかの麻痺が残る可能性がゼロじゃないんだと気づいた。

この経験から、自分の人生というのは、自分が思ってるより長くはないんじゃないかと思えるようになり、「数年後には・・・」とか言ってる場合じゃないと思った。そして2021年の3月いっぱいで辞めることを決意した。

そして昨年の12月、上司に辞職の意向を伝えた。ただやっぱり公務員ってそもそも辞めることを想定していないので、すんなり辞めれるわけじゃなかった。

組織に対する裏切り行為だって言う人もいれば、反社と繋がって情報漏洩するんじゃないかって言う人もいた。正直めちゃくちゃショックだった。警察人生12年、自分の時間も命も削って貢献してきたと思っていたから。

そんな時に、同じ課の係長から「新しいことに挑戦されるんですよね?」って声かけられた。係長は「挑戦できるのが羨ましいです。自分には子供も二人いますし、この組織に縋り付くしかないかなぁって。自分には挑戦する勇気がないのでその決断、本当に尊敬します」って言ってくれた。

私はその係長が毎日のように課長補佐から怒られているのを知りながら、何も声をかけることが出来なかった。なのに、尊敬するって言ってもらえてなんだか複雑な気持ちになった。

ある日の課内朝礼で、その係長はおもむろに立ち上がったかと思うと、課長補佐を指差して「もう我慢できません!私はこの人をパワハラで訴えます!」って大声で言ったんです。私はその勇気ある行動にめちゃくちゃ感動した。きっといろんな葛藤があり、それに打ち勝ってこのような行動をとったんだと思うと、本当に素晴らしいと思った。だから、係長には辞めるまでに勇気を貰えたことに関して、お礼を伝えようと思っていた。

そして先日、係長のお話する機会があったので、私の方から勇気ある行動に感動したと伝えたところ、係長から「あなたが挑戦するという話を聞いて、私の方が勇気をもらったんです。だからこうしてパワハラを告発できました。お礼を言うのは僕の方なんです。これから私はおそらく組織に後ろ指さされて生きていくことになりますが、後悔はありません。」と言われた。

本当に嬉しかった。自分の挑戦が誰かの挑戦を作った瞬間だった。そしてこの時から、自分の作りたい世界が決まった。

「挑戦が挑戦を生み出す世界をつくる」



■ 私の夢


私の信念は『「挑戦」を決意し、それを「行動」に移せば、必ず人は「変わる」ことが出来る』ということ

私自身、これから既存の概念に囚われず、新しいことにどんどん挑戦していき、その挑戦する姿を発信していくことで、多くの人の挑戦と行動を生み出し、この世の中を挑戦で溢れる世界に変えていきたいと本気で思っている。

そして現在、この私の理念に賛同してくれた3人と一緒に、これから活動していき、今年度中の法人化を目指している。私の信念である

「挑戦(TRY)」、「行動(ACTION)」、「変化(CHANGE)」

の頭文字をとって、チーム名をTRACHと名付けた。

そして私はこれから次の3つのことに挑戦していきたいと考えています。


1.「貿易家」として世界と日本を繋ぐ架け橋になる

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貿易家とは先に説明した通り。海外メーカーの日本での市場開拓という挑戦を自分たちがサポートできる、そして自分 たちが総代理店として扱う商品が日本の有名小売店の店頭に並び、それが多くの人の笑顔を生むと考えたら、ワクワクせずにはいられない。貿易家としてビジネススキル、マーケティングスキルを身につけることで、自分の可能性をさらに広げていく。


2.「講演家」として挑戦が挑戦を生む世界を広げる

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※作成者:タクマさん(DADDIES)https://twitter.com/tsumugi_papa

     秋吉さん(DADDIES)https://twitter.com/yutavlog_tennis

なぜ講演家になりたいのか?それは、昔から部活のキャプテン、生徒会をやってきて、友人の結婚式2次会では常に司会と幹事。それらは全て自分の強み。自分の強みを生かしつつ、挑戦することの大切さを発信する方法は、自分にとって講演会という形がベストだと考えたから。自分たちが挑戦を続けることで得た経験や気づき、挑戦することの素晴らしさを講演会を通じて多くの人に伝えていくことで、挑戦が挑戦を生む世界を作っていきたい。


3.「イベント開催家」として関わった人全ての人生観を変える

私の尊敬する、そして川西出身のスター・キングコングの西野亮廣さんが私川西市で主催した「万願寺、光る絵本展」を見にいき、衝撃を受けた。

今まで自分は美術館や展示会などといった類のものに感動したことがなかった。でもこの光る絵本展だけは違った。夜のお寺という荘厳な場所、その中に光る絵本がまるで浮いているかのように光を放ち、来た人を非日常へと誘う幻想的な音楽。その全てにただただ感動した。彼が作りたい世界観が全て凝縮されていた。

その時思った。

「自分も来た人の人生観を変えるようなイベントを開催したい」

そして同じ志をもった仲間二人と「#KAWANISHI」という団体を立ち上げた。

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私たちが育った川西市を盛り上げるイベントを開催し、来てくれた人に非日常を体験してもらうようなイベントを企画していく。

イベントの内容については要検討ですが、川西にある既存のモノと既存のもの、それもミスマッチなものを組み合わせることでイノベーションを起こし、そこに「非日常」の空間を作り出して参加してくれた人に忙しい日々を少しでも忘れてもらおうという企画を考えています。例えば友人が働いているお寺を使って「寺フレンチ」や「寺ライブ」なんか。

もしこのnoteを読んでいる方の中に、イベント運営なんかの経験があり、こんな企画おもしろいですよって案があれば、気軽にDMやコメントをいただけるとめちゃくちゃ嬉しいです。

実は先日、Twitterで知り合った「Gate_Tokyo」さんの挑戦に、本当に心打たれた。

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彼らは「早く帰りたくなるカフェ」というコンセプトのもと、「コーチング」「カフェ」「個展」を組み合わせたイベントを5月3日、4日、5日と期間限定で開催します。

彼らはこの挑戦を行うにあたり、クラウドファンディングを使った資金集めと認知拡大という方法をとり、見事目標金額を達成しています。彼らの挑戦する姿に本当に勇気をもらい、そしてこれからイベントを企画する自分にとって、たくさんのことを学ばせてもらいました。ぜひ、5月3日〜5日の間に、足を運んでください!絶対、素晴らしい時間を過ごせるはずです!


■ 夢を叶えるたった一つの方法


長々と自分のことを話しましたが、最後にみなさんに伝えたいことがあります。それは「夢は語らなければ叶わない」ということです。

みなさんは最近、夢を語りましたか?将来の夢について家族や友人に話しましたか?おそらくほとんどの人は、夢を語るなんて恥ずかしいって思ってるかもしれません。実際に私がそうでした。夢を語って笑われるのが怖かったから。

子供の時には「サッカー選手になりたい」とか、あんな笑顔で夢を語っていたのに、どうして大人になれば夢を語らなくなるんですか?それは、大人になって現実を知ったから。正確に言うと「現実を知った気になった」から。
夢を語れば「それで本当に生活が出来るの?」「成功する目処は立ってるの?」って言われます。

私の場合であれば、「人を感動させるイベントをやりたい」と言えば、「そんなイベント個人レベルじゃ無理だって」って必ず言われる。でも誰かやったのか?誰かチャレンジしたのか?それは何回もチャレンジした結果、導いた答えなのか?そうじゃない。だったらやってみないとわからない。みんなが「現実を知った気になっている」だけで、実際は何もわかってない。だったらごちゃごちゃ言わず、まずやってみましょうよ!いくつになっても良いじゃないですか!

夢はどういう時に実現するのか、もしくは実現に近づくのか知ってますか?それは、夢を誰かに語った時。そしてその夢を共感してもらった時。そしてその夢が自分一人の夢じゃなくなった時です。この時初めて、夢は実現へと大きく近づくんです。それは私が今、ここに立っている事実が物語っています。

私が所属するパパコミュニティ「DADDIES」で、「将来、講演家になりたい。講演家になって挑戦を躊躇ってる人の背中を押したい。そして挑戦を生む講演家として情熱大陸に出たい」って話をしたんです。そしたらみんながめっちゃ共感してくれて、「その夢叶えましょう!いつ講演会やりますか?日程決めましょう」って言ってくれたんです。その後、DADDIESのみんなが「サムネ作ります」とか「Twitterで拡散します」とかみんな言ってくれて。ついには「拓也さんの夢が、もう私の夢になってるんです」って言ってくれて。もうめちゃくちゃ嬉しかったし、本当に泣けてきました。夢の共感が広がった時、これだけ多くの人の心を動かすことが出来るんだと思えました。だからこそ、今、私がここに立ててるんです。こうして夢を実現してるんです。あの時、私が恥ずかしがって夢を語らなければ、今日は無かった。

ここにいる皆さんの中にも、何か現状を変えたいって思ってる人がいるかもしれません。大丈夫です。変われます。だって変えたいと思って今、見ず知らずの私の講演会を見てくれてるんですから。今から変えていきましょう!

子供がいるから、会社の目があるから、家族に反対されるから。環境のせいにしたって何も変わらない。それは環境を「やらない理由」つまり言い訳の材料にしてるだけです。

だったら今日から一つずつ、その言い訳の材料を処分していってください。本当にやりたいことなら、家族を説得してください。会社を納得させてください。そのために何が必要なのか考えてください。昨日と同じことやってたって何も変わらないんです電車の中でスマホ触ってるだけで1秒ずつ命が削られていくんですだったらその1秒をなりたい自分への時間に使いましょうよ!やりたいこと見つける努力しましょうよ!

先日、妻に「なんで俺の挑戦を受け入れてくれたの?」って聞いた時の妻の答えが深いなと思いました。

「あんなに笑顔で真剣に夢語られたら、その夢一緒に叶えたいなって思うやん!その夢かなったらどれだけ幸せだろうって思うやん。根拠はないけど、あなただったらそれが出来る気がするって思ったから。前までずっとしんどそうに生きてたから、毎日あんな顔されてたら、家族が幸せじゃないよ」

毎日嫌だと思うことに命と時間を使ってお金に替え、それで家族を養うことが自分の義務であり、家族の幸せだと思ってました。でも、どうやらそれは違うんじゃないかって。自分が何かを犠牲にして守ろうとしていた幸せは、本当の幸せじゃないかもしれないって。美談って思われるかもしれない。だったら自分で美談にすればいいだけ。自分が頑張って、後に美談に出来るように努力すれば良いだけ。それが覚悟なんじゃないですか?


■ さいごに



今日の私の話を聞いて、今から何か変えようとか、会社の働き方を変えようとか、何かに挑戦してみようって少しでも思っていただけたのなら、講演家としてこれ以上の喜びはありません。

環境を変えれば、絶対に考え方が変わります。私もDADDIESに入って本当に人生がさらに加速しました。悩んでるんだったら自分から環境を作りましょう。環境に飛び込んでみましょう。そしてそこで夢を絶対に語ってください。

最後に一つ、紹介させてください。今、目の前にこれからTRACHとして一緒に働く仲間がいます。彼女とは友人を介して知り合ったのですが、このTRACHに加入するまで2回しか会ったことがありません。3回目に会った時に、私の夢を聞いて共感してくれ、加入することになりました。

彼女には夢があります。それは西野亮廣さんのマネージャー・田村さんといつか一緒に働くことです。田村さんのオンラインサロンに入れば、一緒に働く機会はあります。でもそうじゃなくて彼女は自分がビジネスの世界でのし上がって、田村さんと同じフィールドに立って仕事がしたいって言ってくれました。めちゃくちゃ素敵な夢だなって思いました。だから今の私の夢は、彼女の夢を叶えること。彼女の夢を叶えるために、私も西野さんに追いつくと決めました。そしていつか、誰かが彼女のことを見て「私もあの人と一緒に働きたい」そう思ってもらえるようにします。自分の夢が誰かの夢になり、その叶えた夢を見た、また誰かがその夢を見る。そんな夢の連鎖が生まれる世界を私は作っていきます。



※ 長編noteを見ていただき、ありがとうございました。近日中に、講演会を終えて思うことをまとめたnoteを執筆する予定ですので、そちらも見ていただけると嬉しいです。

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