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団塊ジュニア世代が見てきた東京メンズファッション30年史②              

団塊ジュニア世代のファッションへの目覚め

多くの男性がファッションを意識するようになるのが10代前半だろう。ほとんどの場合、それは第二次性徴期とほぼ重なるだろう。中学1年生になった私が初めて手にしたファッション雑誌は、当時モデルで現在は俳優として活躍している阿部寛を表紙に起用した『メンズ・ノンノ』(1986年:集英社)の創刊号だった。だた、誌面に掲載されていたトラッドファッションは、刺激を求めていた自分にとってはピンとこなかった。しばらくは数号買っていたと思うが、なんとなく読むのをやめてしまった。
 
優等生でも不良でもない、どこにでもいる目立たない少年だった私が急変したのは中学2年生のとき。友人に誘われて吉祥寺のバウスシアター(2015年閉館)で観た映画『D.O.A.』(1981年)だった。この作品はセックス・ピストルズを中心とした70年代末のロンドンパンクムーブメントを追ったドキュメンタリーだ。それまで聴いたことのない騒々しくて荒削りな音楽と、見たこともない過激なファッションに衝撃を受けた。そして、貪るようにアナーキーやデストロイといった英単語を知るために何度も英和辞典を引いた。
 
音楽とファッションもさることながら、物騒かつ下品で急進左翼的な歌詞もとにかく刺激的だった。ジョニー・ロットンの胡散臭い感じ、シド・ヴィシャスの危うい感じ。そのどちらもパンクに欠かせない要素であり、ビートルズやローリング・ストーンズとは明らかに異なっていた。それまで周囲の受け売りで聴いていたBOOWYや米米クラブとは完全に別物で、日本のロックやポップスは一切受け付けなくなってしまった。今考えると笑い話のようだが、勉強かスポーツかヤンキーしか選択肢がなかった中学2年生にとって、音楽とファッションで自分を表現し、社会に異議申し立てをするパンクという存在は大発見だったのだ。

中学生時代に愛読していたカルチャー誌

その年が明け、昭和天皇崩御による自粛ムードに包まれた東京で、なぜか営業していたクロサワ楽器の池袋店でエレキベースを購入し、ラグビー部の同級生と一緒にバンドを結成した。こうしてパンクの洗礼を受けた後に、ほぼ毎号手にするようになった雑誌が『宝島』だった。反原発ソング“チェルノブイリ”をNHKの音楽番組で披露して大きな注目を集めたザ・ブルーハーツや、“サマータイム・ブルース”で反原発を堂々と宣言し、原発事業に深く関与していた東芝の関連企業であった東芝EMIから発売禁止となった忌野清志郎を取り上げていた。
 
また、『宝島』には藤原ヒロシと高木完によるタイニーパンクスの連載や中森明夫によるコラム、東京トンガリキッズなどもあり、当時のアンダーグラウンドカルチャーが凝縮されていて読み応え十分だった。モノクロ面には縦1/3の広告が沢山あって、革ジャンやラバーソール(正しくはクリーパーズと呼ぶ)などを取り扱うパンクショップの広告に目が止まった。新宿西口のションベン横丁(現在は“思い出横丁”と呼ばれているが、終戦直後の闇市のようにひしめき合った飲食店にはトイレがなく、その中心にあった集合トイレが小便臭かったからその名が付いた)にあったユニオンというパンクショップに足を運び、強面の店員にビビりながらもガーゼシャツとデニムのライダースジャケットを手にした。

知りたい情報はいつも遅れてやってきた

私服通学が許されていた付属高校に進学していた私は、どうしてもシド・ヴィシャスと同じ革ジャンが欲しくて、原宿キャットストリートにあったパンクショップ「666」のオリジナル商品で、シド・ヴィシャスと同じショート丈のライダースジャケットと「ドクターマーチン」のブーツを購入し、典型的なロンドンパンクファッションを完成させた。そうしてザ・スタークラブ、マグネッツ、アグレッシブ・ドッグスといった日本のパンクバンドを観にライブハウスに足を運び、周囲の客とパンクファッションの本気度を競い合った。ちなみに「ジョンソンズ」という英国ロックブランドのバイカーブーツと「ジョージ・コックス」のクリーパーズは、出張で渡英した親父に頼んでロンドンから自宅へ船便で送ってもらった(今思うとどれだけ息子想いの父親なのだろうか)。
 
当時まだ珍しかった輸入盤CDを扱っていた西武池袋のWAVEや、池袋の明治通りにできたばかりのタワーレコード1号店に多少の取り扱いはあったものの、同時期に勃興しつつあったフガジやジョーブレイカーを筆頭とするUSパンクのCDを手にするためには、西新宿のUKエジソンに足を運ぶ以外に選択肢はなかった。自慢のパンクファッションに身を包み、友達を誘って西新宿に繰り出し、DOLL MAGAZINE(1980年創刊、2009年廃刊:DOLL)という音楽誌でレビューされていた新譜を見つけては興奮していた。その後も同時期に勃興していたグランジにも出会い、ますます音楽にのめり込むようになった。CDのブックレットはもちろん、洋楽誌『ロッキング・オン』(1972年創刊:ロッキング・オン)と『クロスビート』(1988年創刊、2013年休刊:シンコーミュージック)を隅々までチェックし、ニルヴァーナやソニック・ユースといったグランジロッカーたちの着こなしを真似るようになっていた。

リアル渋カジ世代に紛れたパンク少年

そのまま進学した高校生時代に渋カジブームが到来。チーマーと呼ばれる新しい東京の不良たちが続々と渋谷のセンター街周辺に集い、揉め事を起こすようになる。仲の良かったクラスメイトの多くは、ファッション誌が取り上げる前から渋カジに夢中だった。当時所属していたラグビー部の先輩の中に元祖チーマーが数人いたこともあり、改めて考えると自分だけではなくクラスメイトのほとんどがお洒落に入れ込んでいた。高校生ながらに「バンソン」「ショット」の革ジャン、「レッド・ウィング」「チペワ」のエンジニアブーツ、「ゴローズ」のアクセサリーを愛用していたハードアメカジ派、「ラルフ・ローレン」のボタンダウンシャツとブレザー、「ファーラー」のスラックスを愛用していたデルカジ(モデルカジュアル)派もいた。私が高校1年生の頃は、先輩からパー券(パーティ券)を半強制的に売りつけられた友達もいたし、その先輩の1人が薬物売買事件を起こして退学するなんていう事件もあった。
 
高校2年生になると「ドッグタウン」「ゾアラック」「ジミーズ」「ボーンズ」といったスケートブランドをいち早く取り入れた友人がいて、彼から教えてもらったビースティ・ボーイズやパブリック・エネミーなどの初期ヒップホップと、アンスラックスやスーサイダル・テンデンシーズといったスラッシュメタルの影響も加わっていった。そうしてファッションもUKパンク色が薄まり、ネルシャツ、スウェットパーカ、スニーカーを取り入れたパンクとスケーターの折衷スタイルにグランジの要素を加えたスタイルを自分なりに実践していた。当時は前述したいわゆるパンクショップか、新宿アルタにあったミリタリーショップ、またはオクトパスアーミーというアメカジショップで買い物をしていた。

目立つファッションをするだけで絡まれる

校内の廊下はさながら渋カジ見本市の様相を呈していて、どこかでその噂を聞きつけた女性誌『セブンティーン』(集英社)の取材が来た。同級生に誘われて、なぜか私も学舎の屋上で取材を受けた。その時はバンダナを首に巻き、アメリカ西海岸のギャングスケーター風のコーディネートをした。その頃は、エアマックス狩り、革ジャン狩り、パンクス狩りなんていう物騒なワードが囁かれるようになり、渋カジから生まれたチーマーは社会現象にまで発展。同級生の1人が渋谷の宇多川警察署近くのゲームセンターでゴローズ狩りに遭遇し、身包み剥がされたと聞き、慣れないことをするもんじゃないと思い知らされた。パンクファッションに夢中だった私は、チーマーにもヤンキーにも一才興味がなかったが、革ジャンを着てブーツとスタッズベルトで身を固めて渋谷や新宿を歩き回ると、ヤンキーやチンピラに何度か喧嘩をふっかけられた。たまには反撃して上手くいくこともあったけれど、新宿三丁目の地下鉄構内から上がるエスカレーターでヤクザに絡まれて、事務所に連れていかれそうになったこともあり、いきがってはいたけれど内心はいつもビクビクしていた。今や派手な格好をして街中を闊歩する若者は珍しくないけれど、当時はそれだけで十分反抗的と捉えられていたのだ。

90年代に70年代リバイバルが到来

そんな強烈なファッション体験を経て大学生になると、レニー・クラヴィッツに影響されて、70年代風のファッションアイテムを下北沢の古着屋で買い求めるようになった。それまでテクノロジーの進化とともに音楽トレンドは大きく変化してきたが、80年代末にデビューしたレニーが奏でたのは、懐古趣味的とも言える60〜70年代風のサウンドで、“黒いジョン・レノン”とも形容された。彼が90年代を通じて我々に提示したのは、未来よりも過去の中にこそカッコいい音楽やファッションがあるという価値観だった。彼が全面プロデュースを手がけたバネッサ・パラディは、セルジュ・ゲンズブールに見出されたジェーン・バーキンのようでもあり、ボヘミアンやヒッピーテイストを取り入れたそのファッションも、当時の日本のサブカル好きに熱狂的に指示された。
 
ほぼ同時期にソロデビューを果たしたポール・ウェラーやプライマル・スクリームのボビー・ギレスピーの着こなしにも、ペイズリー柄のシャツやボーダーのカットソーなど、やはり70年代的な要素が加わっていたのも見逃せない。洋楽を聴き漁っていた私は当然、大きな影響を受けた。さらに、70年代のアメリカン・ニューシネマの名作や、ジム・ジャームッシュやガス・ヴァン・サント監督のインディペンデント系と呼ばれる映画をレンタルショップで借りては、貪るように観ていた。特に『ドラッグストア・カウボーイ』における、マット・ディロンのリアルなアメカジスタイルにも影響を受けた。周囲の友人は分かりやすいアメカジ派が多かったが、より個性的なファッションを求める友達は下北沢の古着屋でよく買い物をしていた。私も派手な色柄のレーヨン素材のシャツ、マルチボーダーのカットソーやポロシャツなどをよく買っていた。また、深夜に放映していた音楽番組「BEAT UK」では、前述したアーティストを中心とする最新のミュージックビデオが流れていて、ビデオに録画して好きなアーティストを何度も繰り返して観ていた。

ブリットポップの盛り上がりとモッズリバイバル

また、大学生時代に所属していた音楽サークルには洒落た先輩がいて、「ジョン・スメドレー」のポロシャツ、「ベン・シャーマン」のギンガムチェックシャツ、「セント・ジェームズ」のバスクシャツ、「クラークス」のデザートブーツなど、モッズの定番アイテムを教えてもらい、それまでの自己流アメカジにモッズの要素を混ぜたスタイルに落ち着いた。やっぱり、インポート品を手にするのは特別な体験だったし、周囲の学生よりも垢抜けていたと思う。この時期の日本におけるモッズ再評価の背景には、オアシス、ブラー、スウェード、ヴァーブ、パルプに代表されるブリットポップムーブメントがあった。ダンスミュージックとヒップホップに凌駕される前に、最後の輝きを放ったロックムーブメントであり、そのルーツにはザ・フー、キンクス、スモール・フェイセズがあった。
 
その影響は日本において顕著に現れ、『スマート』や『ホットドッグ・プレス』などファッション誌が盛んにモッズを取り上げていたこともあり、モッズファッションがお洒落という雰囲気が多くの若者に共有された。中学生時代からファッションのヒントを音楽や映画に求め、そのオリジナルを知っていた自分はファッション誌では飽き足らず、もっとカルチャー要素が強い雑誌を求めていた。そんな知的好奇心を満たしてくれた雑誌が、『CUT』と『流行通信』だった。どちらも執筆陣の小難しい文章を完全に理解できてはいなかったが、当時背伸びをしていた自分には十分に刺激的で、少しだけインテリに近付けたような気がした。改めて振り返ると、90年代のユースカルチャーは雑誌が牽引していたのだ。また、フリッパーズ・ギターとスチャダラパーを主役とした渋谷系と呼ばれたムーブメントが、ピチカート・ファイブやオリジナル・ラブへと引き継がれていったのもこの頃だ。

続く

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