患者たちのならわし!
歩こうと思うのだが、フラッとしてなかなか歩けない。隣りに誰かいると違うのだが、やはり一人だと力が入らない。
ムムッと思い、足を前に出そうと力を入れるのだが、すぐそこの目の前の位置までたどり着けない。
二日酔い、風邪、新型コロナウイルスではなく、気力が萎えてしまっているのだ。
以前と異なり、僕は自分にすぐ診断を下すことができた。
「俺はうつが再発した。だから歩けないのだ」
以前から精神医学、薬学、人文思想の本をよく読んでいた。好きなジャンルでもあるし、「こころも身体の一部だ」ということはよく理解しているつもりだ。
知識のある最大のメリットは、すぐに病院に行く選択肢を取れることだ。もちろん歩けなくなったほど苦しいので、治してほしいとも思っている。
病院に行くと気分が落ち込む。負のオーラを抱え込んでしまう。というひとがよくいる。
僕はちょうどその逆だ。元気が出てくる。
世の中には自分なんかよりも、さらに重症なひとがいる。こんな軽傷でへこたれていてはいけない、という気持ちになる。
心療内科では患者同士のコミュニケーションなどほとんど無いが、たまに話しかけられるときがある。
「きみ、どんな病気なの?」などと軽々しく聞いてくる。
「躁うつとアルコール依存す」などと答えると、「へぇ」と少しイキられる始末だ。
そういう、いわゆる「聞いてくるタイプのやつ」は大体が重度の統合失調症や記憶障害なんかの「重め」のやつだったりする。
おかしなカーストなのだが、心療内科という位相の中においては、よりヤバイ精神疾患を持つ患者の方が偉い風潮があるのだ。
学校という位相の中では、遊戯王カードが強いと偉いなどという話と似ている。
おそらく一種の連帯感だ。
これは学生の部活や、ママ友コミュニティ、バンドマンたちなんかにも存在するのではないだろうか。
うつの話だが、まわりの助けがあると、この類いの病は早く寛解する。
そう、「治癒」ではなく、「寛解」というのだ。あくまで症状が、なりを潜めている状態に過ぎない。
「俺はうつの診断が出ている」とまわりに打ち明けるのをためらうひとがいるが、僕の肌感ではまぁ打ち明けた方がベターだ。
結局ラクに過ごせる。一時的には心配をかけたり、負担を強いるが、借りを返すチャンスはまた巡ってくるはずだ。
基本的に放っておいてくれたら勝手に治る。薬と治癒力で折れた心はいずれ元どおりになる。
「がんばれ」と励まさないこと。というのは世間一般にも浸透してきているようだが、僕の体感上としてもおおむね正しい。
がんばりたいのは山々なのだが、折れている状態、もう何もかも捨てたいと思っているところに言われると相当にこたえる。
情けなくもなるし、すべてに腹立たしくもなる。
ずっと家にいることも不可能なので、どうしても会わなくてはいけない人間がいるときは警戒している。
干渉されてはイライラするし、完全に見放されると自殺してしまいそうで怖くなる。
注文の出し方すら分からないというのは、本当につらく、そして周りからしたら面倒な話だ。
温かい感じで距離を置くというのがベターなのだろう。
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