努力と情熱の使い方

都合の良すぎる話を簡単に信じるのはマズイ。
性善説はそれはそれで使いようなのだが、「都合の良すぎる話」というのを信じまくるのは、少し異なる。

どこまでいっても、欲張ると詐欺られる。

しかし、その一方で都合の良すぎる話を、一切信じないのも同じぐらいにマズイ。

苦労や痛みの総量=成果という考え方がある。「がんばったら必ず結果はついてくる」という考え方だ。これは残念ながら嘘である。詐欺である。

努力や情熱の持つ生産力を否定するわけではない。
しかし、それらを賛美しすぎるのは、うさぎ跳びや、水分補給を制限するむかしの体育会系と同じ思考だ。

僕の中に「くたばれ体育会」があるからだろうか。

どうしても「頑張ったら報われる」を疑ってしまうし、それらに軍国主義的な洗脳めいたものも感じる。

世の中には「ラクで効率の良いやり方」を頭ごなしに否定しようとする人がいる。気合いと根性しか認めないタイプだ。彼らはIT長者が嫌いである。

そして体育会の権化系おっさんや変な年寄りに多い。


苦労して、この国に高いビルを建造しまくっていた世代は「苦労=成果」の幻想が大好きだ。

もちろん必要なら気合いと根性も使えばいい。僕も使いまくってきた。

だけどそれらはひとつのツールに過ぎないということを忘れてはならない。

物事をよく運ぶための武器として気合いと根性がある。手段であり、目的ではない。

質より量でアプローチしていくことは戦術だ。素晴らしいからやるのではない。

「ここまで自分のしてきたことが非効率的だったと認める」という行為は勇気がいる。だけどそこから生まれる道もある。

「これから」について考えると「これまで」に対してのカウンターはどうしても出てくる。生きた時間が長くなるほど増えてくる。

効率化ばかり考えても駄目なように、情熱がすべてを通すと考えるのも駄目みたいだ。今日もCDを無料でたくさん配った。増産もしたぞ。

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