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悪事の裁量

人間というのは不思議なものでどれほど悪事を働いても、一つぐらい善いことをしたくなるものらしい。

悪事といってもレベルがある。その一つの線引きが「法で裁けるか裁けないか」ではなかろうか。

しかし『合法』という枠組みの中にも、善悪というボーダーは有る。

たとえば、アルコール依存症は罰を受けないけど、シャブ中は法の裁きを受ける。友達に金を借りて返済しなくても裁かれないが、銀行には返さないといけない。

これらは合法的か非合法かの違いでしかない。

この十年、いろんなひとを見てきた。多様な社会、多様なカースト、多様な価値観に接してきたせいで、僕は普通の会社員よりも、一銭にもならないところの目が肥えたように思う。

塀の中に入っていないだけの極悪人もいたし、どっからどう接しても善人でしかなかった殺人犯もいた。

「善いやつ、悪いやつ」という判断を司法に依存するとロクなことがない。「捕まっていないだけ」なんてまったく善の保証にならない。

「捕まっていないから善いわけではない」は僕自身にもあてはまる。

幸い僕には前科は無い。

しかし清廉潔白、善人面を掲げて生きてこれたとも言いがたい。ていうか僕の人生はそんな風に生きていけるほど、イージーにデザインされていなかった。おまけに元々のスペックも低かった。

ミュージシャンなんて社会的に見ると、手足もがれている五体不満足な健常者と言ってもいい。

それでもなんとか通用するためにいろいろやってきた。QOOLANDの最初は本当に時間が無かった。アルバイトをやる時間も余裕もなかったので、事業を始めた。登記は2012年なので、何だかんだ僕の会社は現在七期目になる。

悪事の限りを尽くした、とは言わないが陽がさんさんと照る王道を歩いてこれたとも言えなかった。

それでもまったく通じない、格ゲーでハメられているようなシチュエーションが立て続けに訪れた。

上記の小学五年生のように、僕もフワフワした甘いことばかり言っていた。

2012,13,14年頃は「なんでこんな目にあわなきゃならないんだ」と独り吠え続けた。でも誰も聞いてくれないし、誰も助けてはくれなかった。

そこから学んだのは、「力が無いと何を語っても絵に描いたモチである」という現実だった。今月のNumberでイチローさんもおっしゃられていた。

理想を掲げているだけ、グチっているだけでは、笑われて終いなのだ。残念だが、ある程度大人をやった人間ならば分かる。

2045年にはシンギュラリティにより、資本主義も終わるのかもしれないが、まだまだ自由競争の世界軸は弱者を締め付け、強者をのさばらすだろう。もうここに逆らっても仕方ない。

「なんでこんな目にあわなきゃならないんだ」と泣くのはどこかでやめないとならない。

少しずつ無力にならないように努めてきた。

『力』とはいったい何を指すのかはその都度によって異なったが、なんとか誰かの養分にならないように生きてきた。自分やまわりのダメージを減らすことに一生懸命だった。

手に入ったときもあれば、届かなかったときもある。

ただ、手を伸ばすことをやめなかったせいか、上京して以来、何だかんだ完全に不能になったことは無い。

思い返すと、一つ一つは小さくても、奪われないようにシールドを張っていたことを思い出す。

こんなことがあった。

2016,2017年にクラウドファンディングをやったのだが、QOOLAND以外の全アーティストの達成金額は会社事務所に持っていかれてしまったのだ。

僕たちだけが一銭も取られなかった。もちろん「取られないように」した。

しかし「フワフワしていた時期」だったら、アッサリ渡していたように思う。ファンが張ってくれた大切なリソースを、である。油断すると、任せすぎるとやられてしまうのだ。

余談だがクラウドファンディングという新たな切り口にも、大人が見え隠れするようになってきた。

「アーティストがキャンペーンを打ち出して資金を集め、裏に構える会社が抜きまくる現象」が増えてきている。

取り分が80%を越えるからか、マネロンにしか見えないときがある。関係ないし勝手にしてくれとは思うが、気持ち悪いことは事実だ。

僕も力を求めるばかりに足元がお留守になることは茶飯事だったし、節操が無くなったこともある。

ただ、どんなときでも「何か一つぐらい善いことを」というスピリッツは、心のどこかに灯っていたように思う。というより「誰か一人ぐらいにとっては善くありたい」と祈っていたのだ。

誰か一人ぐらいには、自分のことを分かってもほしかった。その誰かとは分からないが、自分によく似た、どこぞにいる誰かだ。

あのときも、あのときもそうだった。

100万円が欲しかったのではなく、100万に辿り着く自分を見てほしかったのだ。

大勢に認められたいのではなく、大勢に認められたことを一人に見てほしかっただけだった。

「球体で出来ているんじゃないか」というぐらいに物事は多面的だ。

あるひとにとっては悪人でも、あるひとにとっては善人だったりする。

現在もCDを無料で撒き倒しているが、アレも賛否ある。変則的な試みはいつだって、得をするひともいれば、損をするひともいる。恒常的なものに関しては痛覚が壊れてしまい、誰も声をあげない。

クラファンもそうだ。

得をするひともいれば、損をするひともいるのだ。

戦争や殺人だって同じだ。

現在は世界的に悪と定められているが、それにより救われるひとだっている。だからこそ国益のため繰り返されてきた歴史がある。

これまで僕自身を救ってくれたひとたちがいる。しかし彼らはみんな聖人君子清廉潔白!みたいな人間じゃなかった。

むしろ一度は底辺に住んだことのある人間ばかりだった。

反対に綺麗事ばかり言う人間はいざというタイミングになると、自らの利益を多く見積もってばかりだったし、保身に走る傾向が強かった。

しかし結局、そんな人間は利益を取れずに終わることが多い。

もちろん人間にはそれぞれの価値観や考え方がある。度し難いひとにも、そのひとなりの理が存在する。ただもう関わりたくないだけである。

ひとにはそれぞれ事情があるが、全員と仲良くできもしない。

そしてどうしようもない自分と仲良くしてくれたひとたちもいる。それを忘れちゃならないなぁと思うのである。



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