元気ってなんぞや
元気が無い人を元気づけたい。そんなときがある。無いか?いやいや、あるはず。
善人ぶるつもりもないし、僕もボランティア精神が旺盛なわけでもない。
それでも誰かを元気づけたいときがある。
その人に好意を抱いているなら、わりとあたりまえの感情だと思う。むかしのウォーズマンみたいに、感情が無いという人は別だけど。コーホー。
しかし、『元気』ってなんだろうか。
元気というものは、よくよく考えてみると難しい。
今思うとまったく説明できない。なんだ『元気』って。
寝ずに休まずに、身体にムチ打っているトランス状態は『元気』とは言いがたい(トランスはトランスで気持ちよかったりするが)。
ひたすら大声を出したり、無理くそ笑っているのも、元気と呼ぶには不純な気がする。変なブラック企業は『元気』とは言えない。
アントニオ猪木先輩の「元気があればなんでもできる!」と言って、叫びまくっているのも、ちょっと僕のイメージする『元気』とは違う。
気合いは感じるのだけど。
考えれば考えるほど、『元気』が分からない。なんだ。なんだろう、元気って。
僕はそもそも元気なのだろうか。
自分では元気だと思うのだけど他人から見たら僕は元気なのだろうか。
考える必要があるか無いか分からないことばかりだしそんなことばかり書いているけれど、今日のは特にそうだ。
でも考える必要があることは誰か別の人が考えてくれている。
もらったスキマで、必要ないことを考えていたい、と思う。しばらく考えていた。
文章は元気かもしれない。このnoteは『元気』な気がする。
手前味噌で申し訳ないがここでの執筆って、『元気』の象徴ではないだろうか。
僕は誰から頼まれたわけでもなく、ここをひたすら更新している。
けっこうな人が毎日ここにアクセスしてくれている。ありがとう。
しかしどうやっても趣味の域を越えないコンテンツだ。趣味とうか遊びというか。
だけどここに考えを書き記すことは「いいこと」だろうと思って続けている。
言葉で何かを伝えられるようになりたいと思ったから書いている。そこに近しくなるようなことだと信じてやっている。
この『楽しんでやれることを、自分からやりにいっている状態』は元気かなぁと思うのだ。
普通に考えて、ここを日刊で更新できているのは、僕が『元気』だからだ。
無理しているとかはない。文章を書くのは速い。それに好きだ。
僕の毎日は基本的に「やりたいから」で構成されている。全部じゃないがなるべく「やりたいから」を増やそうとしている。現実と理想の距離を縮めようとしている。曲を作るのも練習をするのも人に会うのも、「やりたいから」が動機だ。
いろいろある。現実はつらくてキツくて、いろいろある。嫌なことばかりいろいろ。
「もっといいものが作れたらなぁ」と思う日もある。「もっと上手に弾けたらなぁ」とも毎日思う。
だけど「やりたいから」で時間が埋め尽くされたらいいなと思う。
少しずつ近づいている。少しずつでいい。
ハワイぐらいでいい。少しずつ近づいていくといい。今も諸々試しながら、なんとか進んでいる。
意識して『好き』をかき集めて行くだけで、マシにはなるんじゃないだろうか。
何かを自分から楽しんでしているうちは元気なのかもしれない。
今日は、何かに待ちきれず、公園に駆けていく子どもを見た。後ろにご両親がいた。子どもは元気だなぁ、と思った。
元気づけたい人がいたとき、「何ができるかなぁ」と考えていたのだけど、人が人を変えるなんておこがましい。
いくら「がんばれ」とか言ったところでその本人が枯れていたら何も咲かない。無理だ。
では何もできないのだろうか。
そんなこともない。
できることがある。
自分が元気でいることだ。
『元気に過ごしているところを見せること』は、そんなに弱くない。
僕も元気な人を見ていると、それだけでパワーを貰える。
一緒にいるだけで、元気が貰えるひとっている。
別に「がんばれ」とか言われることはないが貰える。
元気にしているだけで十分なのかもしれない。
僕の好きな人たちは、いつも元気がある。
いや、無いこともある。でも「元気になりたい」と思っている感じがする。
その元気をいつも貰っている。
好きな人の元気が無い日、そんな日に何ができるだろうか。
貰ったものを、返すことができたら、どんなにいいだろう。
できることしかできないのだから、できること、やりたいことぐらいは元気にやっていたいなぁ。きっとそれは僕が思っているよりもずっと破壊力があるから。
勝つまでが戦争を練習している。
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