見出し画像

うつは技能!

大阪十三。住んでいた場所に帰っていた。ライブで。

いろんなことをしたが、控えめに言ってじっとしていた。

『場末』としか呼べない場所で「ただ佇む」というのは、不審と言えば不審に聞こえるが、世間が個人に無関心である前提を踏まえれば、腑抜けた鮮やかさがある。

画像1

何もせず、感じず、どこの一部でもなく、社会的存在であることも拒否して、頭をぼんやりさせて、ひたすら心のたゆたいに身を任せる。

こういう時間こそ「生きている」と呼びたい。

感情が高強度になる瞬間を「生きているZE!」と定義するひとが多い。エモーショナルに、熱狂したり爆笑したり号泣したり。わかる。

でも煙のごとく、たゆたう瞬間も最高ではないだろうか。
すべての表現を放棄して、社会的責任から乖離していると感じられる時間が、僕は大好きだ(錯覚だとしても)

この感覚を「たゆたい」と呼んでいるが、週に何度かは捕まえとかないと不調になる。数週間もたゆたわずに頑張っていると、衝動的に飛び降りたくなる。

ひとが薬物に手を伸ばすのは「たゆたい」のためだと思っている。合法なものだとアルコールが手っ取り早いが、ハングリーなたゆたいフリークスたちはあっさり違法の領域にいく。社会的責任から乖離するのが目的なのだから、違法薬物取締法が被害者なき犯罪であることを考えると、この合法違法の境界にあまり善悪の差はない。

彼らが「たゆたい」をどれほど求めているかだけに過ぎない。

画像2

僕はクエチアピン、ラミクタールという二種の薬を寝る前に飲んでいる。

クエチアピンは脳内の数々の受容体に作用し、不安感を取り除き、ラミクタールは興奮性神経伝達物質の遊離を抑制して、過剰な興奮を抑える効果がある。

どちらも処方されたものだけど、「たゆたい」に一役買っている。というよりこれらの薬は「あまりにもたゆたえない野郎」に処方されるのではないだろうか。

僕が持っている双極性障害I型という病は、平たく言うと脳の疾患にあたる。うつと躁を不定期に行き来する病気だ。生まれつきの要因もあるらしく、しかたない部分が多いらしい。

ちなみに昨年の夏前に重めのうつが再発した。まず運動能力が激減する。一気に行動力がマイナス1000になる。

ガードレールに覆いかぶさったまま半日動けなくなったり、注文した牛丼を一時間近く眺めたりしていた。なんというか、箸を動かす気力が湧いてこないのだ。注文はしたのに、そこでエネルギーがゼロになってしまう笑える病気だ。

反対に躁転がひどいときは、東京と大阪で二時間おきに予定を埋めてしまったり、いきなりバンドを作ってしまったり、あちこちに連絡してできもしない仕事を約束してしまったりした。眠くもならず、丸二日起きっぱなしだった。その後、気絶するように十五時間ぶっ続けで眠った。
起きたらスマホが、全国津々浦々の市外局番の不在着信で埋めつくされていた。

「えー生まれつきハンデなのかぁ…」と落ち込む日もあるが、たぶんこれはただの「機能」なのだ。バランスを取るためのレスポンスだ、己をなぐさめている。

言うなれば「たゆたえないから身体が強制的にたゆたいを求める」状態だ。

これは僕の持論だが、何かをやりすぎたり、意味を求めすぎたり、表現を背負って、社会的でありすぎる日々が続くと、人間は半強制的にたゆたうのではないだろうか。

たゆたわないと、自傷、自殺、失踪などを引き起こす。揺らぎの中に自失を見いだして、安らがないと壊れてしまうのだろう。

そのやり方が僕の場合は『発症』だったのだ。それで生きていけるならいいではないか。

おかしくても、不健康でも、ハンデだったとしても、そこそこの迷惑をかけても、それが生きる技能の一つなんだったらいいんじゃないだろうか。

繋がった命、消えていく時間の中で何かを残せたら及第していると思う。

生きていたおかげでjuJoeの『閃光』がテレビ東京「プレミアMelodiX!』3月度エンディングテーマになりました。おめでとう自分。



音楽を作って歌っています!文章も毎日書きます! サポートしてくれたら嬉しいです! がんばって生きます!