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『成人』以外に『大人』を言い表すなら

大人になりたかった。子どものときから大人になりたすぎた。

自由も無い、発言権も無い、体力も無い。悔しかった。早く大人になりたかった。


地球上最強の生物、ホモサピの最終形態、マックスバトルフォーム、それが『大人』だった。


成人したって、平気でそば屋で泣いたりする。
ちくしょうが降り積もると、そば屋に逃げ込むしかない。

そば屋の店員は、僕ら客よりも大人なので泣かない。仕事中だから泣くわけにはいかない。

そして泣きたくても泣けない彼らは、今夜どこかのバーのすみっこで泣いたりしている。


「大人になる」ってなんだろう。泣けなくなることだろうか、それともキツイときにバーに逃げ込めるようになることだろうか。
そんなことじゃないよなぁと思う。絶対違ってほしい。


江戸時代のころの二十歳が、現代の三十歳に相当するという話がある。

江戸の頃は十五で元服、つまり一人前の武士として扱われたから、割合で見るとたしかに二十歳=三十歳という感じはする。


むかしは丁稚奉公に出て行くのが、十歳ぐらいだった。つまり、あの頃の子どもたちが現代の大学入学にあたる、18歳の若者ぐらいなのだろうか。

そんな照らし合わせをすると、思っているよりも子どもである大人な僕たち(僕の記事を読んでいるひとは23-35歳が多い)。

これからは叱ってくれるひとが少しずつ死んでいき、どんどん歳を重ねて行く。

もちろん身の回りには年下が増える。

年下が人のせいにしていたら「人のせいにしてはいけないよ」と優しく言う。

自分のせいじゃないどうしようもないことは、適度に「人のせい」にしないと身が持たないことを知っている。そのくせにそんな言葉を吐く。


「人のせいにできる」ってある意味羨ましくもある。

大人たちは「人のせい」にしても意味が無いとどこかで知ってしまう。そこからだんだんと「人のせい」にするのがヘタになる。

そして「人のせいにするぐらいなら死んだ方がマシ」を地で行って、誰のせいにもできず、耐えきれなくなって本当に死んだりする。

自分を責めるのもキツイ。でも人のせいにするのもむなしい。

悟り切って学んでしまって、行き場を失くすのが大人なんだろうか。
あげくの果てにそば屋で、ため息をつくようになるのが大人なんだろうか。

違ってほしい。

もちろん「どいつもこいつも」なんて言葉も次第に吐けなくなる。ひとに吐くなと言うせいだろうか。ちゃんと自分が言った言葉は自分に刺さっていて、自分は吐けなくなる。

これまた大人だからだろうか。いや、それは仕方ないけれど、こんなもんがあの憧れていた『大人』なはずがない。ハリボテの人格者が大人なわけがない。


ときどき大勢のノリがキツかったりする。全然面白くないのに、面白いフリが止まらなかったりする。そんな自分のつまらなさにまたひとつ死にたくなる。そしてそば屋へ。

あっちこっちに突き当たりがあって、どちらにも曲がれなくなっている。それが大人か。嫌だ。

ていうか、そういう機会は子どもの頃からあったじゃないか。小学生のときにだって、政治力の強いやつが権力を握ったじゃないか。これは『大人』特有の文化じゃない。


たしかに大人は「隣りを不快にするぐらいなら死んだ方がマシ」を溜め込んで、本当に死んだりする。だけど子どもたちだって死んでいる。どこにだって突き当たりはある。

「大人になる」って、「どうしようもなく無理なことに対して、ギブアップができない係になる」ってことなのだろうか。

僕が子どもの頃に見ていた『大人』は違った。

子どもの頃が地獄だった分、『大人』に対する憧れは強かった。

「世の中には奪う側と奪われる側がいる」というウシジマ社長の言葉がある。これは資本制度の話なのだろうけど、『自由』と『尊厳』というテーマにも当てはまる。

子どもは奪われる代わりに与えられて、大人は奪える代わりに与えないといけない。僕は子どもの頃からその仕組みの中でもがいていた。


もっと明るいし楽しいし夢も希望もカタチになるのが大人だった気がする。

それを望んでいたのは間違いないし、イマも少しでも近づこうとしている。

少しでも制限の外に、少しでも規制の外に、少しでも自由に。
そう思って生きている。

見知らぬ誰かから放たれた「大人になれよ!」が飛んできて、コメカミにぶっ刺さって抜けない夜がある。

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