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究極の選択を全開で避けないと死ぬ

社会人は一ヶ月に180時間ぐらい働くのが平均的らしい。狩猟時代は60時間ほどだったそうだ。なぜ人間は3倍も働くことになったのか。「貯蓄」を覚えてしまったからだ。

農耕が始まり、人類には「蓄える」という思考が生まれた。

「今はいいけど、あしたは食えないかもしれない」という恐怖心だ。安心感に言い換えるなら「これだけあれば、なんとか冬が越せる」なんて慣用句にもなる。

人間の想像力の中でもこの恐怖心・安心感を煽るとモノがよく売れる。生命保険、家、コロナ関連グッズがそれにあたる。

「今はいいけど、この先はヤバいかもよ」と考えると人間は、たやすく今の痛みを差し出す。だけどそのシステムで少なからず『仕事』が生まれるのだから悪いことばかりではないのだろう。

仕事というのは、何かしら自分にとってマイナスの行いをすることで対価を得る行為だ。

「辛い」「疲れる」「恥ずかしい」「面白くない」「怖い」

これらひとの嫌がる行為を買って出るから、賃金が得られる。等価交換するものがほとんどだ。誰もが「自分でやりたい」と思うものを他者に頼んだりしない。

でも稀に「Aさんにとっては嫌だけど、自分にとってはそうでもない」という仕事がある。

CDを発売したら「全てをさらけ出して書くことは怖くないのですか?」というLINE@が届いた。

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このひとにとって僕のやった仕事は「怖いこと」なのだ。では僕自身はどうだったのか。

今作を書いたことを振り返ると、やはり怖くなかったことが思い出される。書いたのはもう3年も前になる。

あの頃、僕はうつがひっくり返って、躁状態がしばらく続いていた。うつと躁が逆転することを医者曰く、『躁転』と呼ぶらしい。

躁転すると、全然眠くならないし、不気味な万能感が出てくる。何もかも思い通りになる気がしてくる。そのときの心理状態はまるで「みんな立ちあがろう!人類皆兄弟ではないか!」とビルの上から呼びかけそうな勢いだ。「調子が良い」というよりは「イカれている」に近い。

その精神状態で一筆書きした七曲なので、「書き殴った」という印象が強い。

面白いことに書き手としては躁転しているのに、テキスト化されたメロディーは下落中のことだった。うつが重くなって、まったく身動きが取れなくなっていたときの思い出が紙の上で次々踊っていった。

うつという病は正直、孤独だ。

打ち明けたい痛みはあるけど、誰かに会いたいけれど、もうその心当たりが自分には誰一人としていない。その傷をバシャバシャ洗って泥を落とす行為に近かった。

作家としてタイトルを発売することは『仕事』の中でもピーキーなものになる。自分の仕事をたくさんのひとに見聞きしてもらうタイミングだ。知らないひとにも聞かれるし、知っているひとへは「最新の仕事っぷり」を届けることになる。

この記事の中盤で「仕事は嫌なことの等価交換」ということを書いた。音楽だって全部が全部楽しいかというとそうではない。そんな馬鹿で、シンプルで、割り切れる構造になっていない。

仕事の話も、病気の話もそうだが、「割り切ろうとすると人間は危なくなる」ということだ。

人生とは究極の選択を避けていくゲームなのだと思う。

うつと躁のあいだの真ん中に、シーソーの中央に、ふらふらしながら立ってどちらへも極端に傾かないようにするのが大事なのだ。全然、不安定でいいし、将来の結論も急がなくていいし、決めたいときにすとんと当てはめればそれでいい。均衡が崩れると人間は壊れる。

だからこそ、こだわらないでいたい。音楽だけじゃなくあらゆることに僕は「こだわり」が少ない。「それってクオリティに妥協するってことじゃない?」と言われそうだが違う。

常に最新ベースを更新していたいし、自分が信じられなければ、世間で良しとされていることにも従いたくないのだ。

かと言って「こだわらないこと」を完璧にこだわることもできない。何があっても、どのようなケースにおいても「こだわらない」なんてこだわりは持ち合わせていない。

完璧に実行することは死ぬことだ。死んでしまえばこだわることが全くできなくなる。だからこそ、真ん中にふらふらと。シーソーが片方に崩れると、命も危うくなってしまう。


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