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タトゥーを入れていないけど憧れる

タトゥーを入れていない。

十五歳の頃に洋楽のロッカーに憧れて入れたくなったことはある。禁止と侵犯がすべての行動原理だったからだ。「墨入れ」は反抗の証のなかでもハイクラスなものになるし、そもそも校則で禁止されていることはすべてやりたいと思っていた。
しかしそんな大きな話でもなく、とりあえずピアスをやりたかった。だけど何もできなかった。穴を開けるやつを買う寸前までは行ったのだが、レジには行けなかった。痛そうで怖いからだ。

僕はむかしから針だの刺すだのという行為に抵抗が強い痛がりかつビビりな子どもだった。
ワクチンを打ったとき、「いって!」とちゃんと声を出すぐらいには痛みに弱い。周囲にはワクチンは「あんま痛くないけども」というひとが多かったのだが、「針を皮膚にブッ刺すのだから痛くないはずがない。痛覚の信号がイカレてるんじゃないかい」と思っている。

十五の僕は自分の中で色んな言い訳を練り出して、タトゥーを延期することにしたが、未だに決行される予定はない。なんなら時代は流れ、墨を入れる行為時代が不良の象徴という印象は淡くなり、オシャレの一環にすらなってしまった。もはや何の意味もない。

マイク・タイソンが顔面にタトゥーを入れているが、あれは衝撃だった。世界的有名人なので、まぁ社会的な「まともさ」はもうどうでもいいのだろう。それにしてもマジかよと思った。

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タイソンにも驚かされたが、西ドイツの若いパンクバンドが顔面に入れているのを見たときはタイソンの倍ビビった。タイソンのタトゥーよりもデカくておどろおどろしい模様だったし、安っぽいデザインだったのだ。おまけにその小僧がやたらに白くて細っこいのが気になった。

墨を腕に入れたり、背中に入れるのならば分かる。胸でも背中でも分かる。何なら頭頂部とかでも分かる。

何が分かるかと言うと、「僕、あしたからパンクやめます。公務員試験受けるんす」と宣言できる未来への意識だ。これが分かる。

ある日から心を入れ替えて、大人や社会への反抗的な姿勢を封じて「まとも」になることが可能なのだ。しかし顔面に彫り物の刻まれた西ドイツの少年はそうはいかない。変な話、永久に「まとも」になれない可能性さえある。整形手術とかで消すこともできるのかもしれないが、できないかもしれない。

顔面に刺青タトゥーを入れるというのは「ノーフューチャー」を体現している姿勢なのだ。

「未来もいらない。将来もいらない。人生もいらない。安定もいらない。親も家族もいらない。あしたもいらない」

これはパンクの不文律だし、「世の中すべてクソ」という中指を立てる行動原則もパンクを志すならば知ってはおくべきだ。パンクロックの根っこには反体制主義がある。

ただ、完全に「捨てている人間」いうのはなかなか見られるものではない。顔面に墨を入れている人物は知り合いにもいない。

じゃあどう思うか、と考えると僕は微妙に引いてしまう。仲良くなれるか、と問われると多少申し訳なささえ出てきてしまう。

「お前はこんなに身をていして、体制に中指を立ててくれているのに、何もしてやれなくてすまん。俺は口だけだった」という気にさえなる。そしてそれだけ社会に絶望している彼の心の闇の深さにえづいてもしまう。

『東京卍リベンジャーズ』のヒットの際、アンガールズ田中氏が「ヤンキーは駄目なんだって!ヤンキーは….あいつらはカッコよくないんだって!だってあいつらが乗ってるバイクは俺からカツアゲした金で買ったんだから!ああいうのをカッコイイとか言っちゃだめなんだって!」と騒いでいたことがある。あの風貌、口調でまくし立てられると胸に来るものがある。

田中氏同様にヤンキーや不良が嫌いなひとは多いだろう。群れて騒いで犯罪を繰り返し、社会の秩序を乱すのでふつうの反応だと思う。軽自動車の運転席にUFOキャッチャーの景品を格闘漫画の修行装置のごとくぶら下げているのが許せないのも理解できる。

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ただ、僕は不良というものが心底嫌いになれない。なぜだろう。

2,30年ぐらいの周期ごとに世界には「怒れる若者たち」が登場する。彼らは帝国を建国したり、幕府をひっくり返したり、コンピュータを一家に一台使えるようにしてきた。

不良たちはいつも窒息しそうな時代の閉塞感にキレている。そして既成の概念に暴力やルール違反で穴を開け、風を通してくれる。
しかし時代が彼らを受け入れると途端に成功に酔いしれ、腐臭を放ちだす。残念だが力と金を手に入れると豚のように変わってしまい、ヤンキーたち自身が憎んできたそれそのものに収束していく。

そして歴史は繰り返し、また新たな「怒れる若者」による制裁を食らい、元・不良は退場を余儀なくされていく。「目上の者を倒す」というのが不良に共通する行動原則だ。不良は常に王の首を狙っている。大きな流れを憎んでいる。

その結果、首をとって名をあげるのはもちろんごく一部の不良にすぎない。

明治維新まで辿り着けた不良は内閣総理大臣になったし、陸軍の大幹部になったし、財閥を興したが、ほとんどの不良が道中で命を落とした。

あの西ドイツの顔面にタトゥーを入れた若者はどうだろう。まだこれからなのか、もうすでに終わってしまったのか。それはそれで無関係ながら申し訳なく思う。

一緒に戦ってやれなくてすまないという自責の念と、夜になると「彼が何をしたって言うんだ」といういたたまれなさが襲ってくる。

まだまだ「グレるのも道外れんのもそいつの自由っしょ」というセリフは僕の中から出てこない。レールを外れるのはもちろん自由なのだけど、外れないとやっていられないぐらい苦しいのが分かるのだ。


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