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「慣れ」というのは存外怖い

ほうけているあいだに十月も半ばである。「年末年末!」などと言って慌てるタイミングなのだが、慌てるのも毎年のことなので慣れている。

「慣れ」は状態の感じ方に過ぎないものだが、存外怖い。
不慣れな時期というものは、未熟だったり完成度が低いことは違いないが、それに関するすべてへの新鮮な感動がある。

何に慣れたかと問われると諸々もろもろだが、ここんとこ根本の「人間としての暮らし」みたいなものに慣れてきた気がするのだ。
というより「この程度のクオリティの人間力で人生をしのいでいくこと」に適応したのかもしれない。

「お前今まで慣れてなかったんかい!」とツッコまれそうだが、どう考えても慣れていなかった。正直、他人の価値観に触れたりすることすら嫌だった。「人それぞれ」とか言われるならば、違う人間と関わりを持ちにいくことすら嫌だった。

今もその節はあるのだが、わりと慣れた。けっこう嫌じゃないのだ。
もちろん「人間として社会生活を極めたぜ」とかではない。ただただ社会や世界への脅威のようなものを感じる頻度が減った。ゼロではないけれど、以前と比べれば激減したのだ。

数年前の僕はもっとビビりながら、もっと嫌がりながら、もっとけながら生きていた。

新しく出会うひとは自分を傷つけるために現れる気がしていたし、あしたには知人全員いなくなると感じていたし、ふらり魔が差して自殺するとさえ思っていた。

僕は身を守るために誰とも出会わず、仲を深めず、自傷関係の本を読みあさった。風邪をひかないように着込みすぎて熱さでぶっ倒れる馬鹿に近かった。

いまだに心配性は残っているが、やはり「慣れ」を感じてきているのは事実だ。けっこう出会いが好きになっているし、出会うと仲良くもしがちだし、魔が差す気配もここんとこはない。実に安全かつ健康だ。これは素晴らしいことなのだけど、体感として「新鮮な感動」を味わう機会が減っている。

これでいいのか?という感じがする。百人が百人中「ええに決まってるやんけ」と言うと思う。でもこういうのは変わっていくと少し怖い。正しいことが一番危ない。百人にとって正しいことが、自分一人にとっては間違っていることもある。

正しさに目が曇り、本当は目の前にある素晴らしい時間を拾えなくなることがある。感度と視力が清潔さに汚されるときがある。

対策というほどではないが、何でもいいので不慣れなことにバーンと飛び込んで、ストレスを与えていきたいと思う今日この頃である。

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