自由についてのコラム

ガラスの外が雨粒で何も見えない。窓が窓の様相を成していないほどの雨量の中、暖かな喫茶店の席に座り、暖かなものを一人飲んでいる。

突如、天空が大泣きしているみたいになったけど、今日は夜までずっと降り続けるらしい。そしてYahooニュースによると九州では記録的な大雨だと言う。

こういった極端な天気になると会話の内容は天候のことになるのが常だが、隣りの席では女の人たちが「自由の時間がすくなーい!」と雨も晴れも春の訪れもへったくれもない話をしていた。

うむうむ。自由の時間が少ないのは悲しい。よく分かる。僕も自由の時間が少なくなるとそれだけで呼吸が止まりそうになる。

しかしよくよく考えると、成人している時点で僕たちは子どもの頃よりは自由ではないだろうか。だって、どう考えても「自由な子ども」よりも「不自由な大人」の方が自由だ。

なぜなら子どもというものは、一人で暮らす権限も無いし、毎日数時間もの集団生活を強いられる。そしてそのグループ分けは主義思想や性格の相性は加味されておらず、ただ同じ年代、同じ地域に生まれたというだけの雑多な選別のもと、『教室』という一つの空間に詰め込まれるのだ。

国から配属された教官から受講するのは、特別本人が希望したわけでもない科目。昼には自分で注文したわけでもない食事の供給と清掃業務。

ことある後に行進を義務付けられ、その際、私語は禁じられる。一日に何度も「起立!礼!」などの号令に合わせ、隊列を揃え、規律を見出した者は教官の判断で指導が入る。こう書くとほとんど刑務所のようだ。子ども、大変である。

ここから分かるのは、子どもには大人と異なり「いろんな仕事があるから辞める」や「このひとと別れて、別のひとと付き合う」といった選択機会が無く、そもそも知識、知恵、教養が圧倒的に足りないということだ。

だが、僕も知らないからこそあのブッ壊れた世界で生きられたのかもしれない。気を失っている方が幸せなこともある。
たとえば大人になり、今現在備わっているリテラシーを引き継いだまま小学生に転生したら、発狂して死ぬ気しかしない。

知識、知恵、教養とは自由への素材だし、翼だ。知らなければ正気でいられるが、知らなければ永遠にカゴの中の鳥だ。

大人はそれらを知り得るが、子どもは知り得ない。しかし大人でも知識、知恵、教養がなければ、カゴの中のままだ。

「じつは人間はいろんな場所に行けるし、今の場所がイヤなら全然立ち去れるんだよ」という価値観に手が届いていない大人も実際に存在する。

「ここを離れるわけにはいかないし」
「辞めるわけにはいかないし」
「別れるわけにはいかないし」

こういった言葉を成人後もずっと吐いているひとがいないだろうか。

どんな大人にだって、今やっていて、続けていて、一緒にいるひとがいる。そこには理由がある。その理由が「辞められないから。別れられないから」だと少しずつ心が何も感じなくなっていく。

「いつでも辞めれる。いつでも別れられる」方が自由なのだ。

何かに束縛されている状態は大切なものが濁る。何でそこにいるのかが分からなくなる。辞められないバンドや、別れられない恋人は「大人の自由」をだいぶ貧しくする。

それにしても「自由」とは何なのだろうか。追い求めると分かるが「自由」というのは決して美しい言葉ではない。自由を選べば人間は生きていく上で、非常に不自由にもなるからだ。それに「自由のために耐え忍ばねばならない孤独や心細さ」に比べると、自分を殺し、「掟、規則、ルール」の持つ不条理に耐える方がはるかに苦痛は少ない。

ただし、そのどちらを選んでも苦しみと安楽さの収支決算は、たいして違わないようにも思える。

自由は冷たくて寒いものだし、束縛はあたたかいが腐臭がする。

どちらを選ぶかは「首吊りがいいですか。飛び降りがいいですか」と問われているようなものだ。

だが少なくともその選択は、それらを引き受ける本人によってなされるべきだ。

どっちかを選んでいくことかは、人任せにしない方がいい。

たとえば 「野球部の男子は丸刈りにすべし」という規則がある。これは無茶苦茶である。世界中で丸坊主を強制されるのは、タイの修行僧か、刑務所に服役する男だけだ。

いったい何の権利があって、野球部を丸刈りにするのか。

多くの権力者の答えとしては「学生らしさを損なわぬため」というようなものが返ってくる。

これは真意を言いかえれば、自分が丸坊主であることによって 、その子が自分の行動を「学生らしさ」の中に封じ込めてしまうことで、非行を未然に防げる、ということである。つまり刑務所の丸刈りと同じ論理だ。

この時点で教育者は「教育」という自分のプロフェッショナリズムを放棄し、単なる「看守」に自らを成り下がらせたと言える。

少しでも自由になることを選択した人間として、僕は未だに看守と付き合うのは苦手だ。

自由がほしいなら、看守の性質を持つ全ての人間と対立する覚悟がいる。これもまた自由を選ぶ寒さだ。自由とは薄着だ。


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