対立しても

「対立やケンカがいいことだ」と無条件に思っているひとが、世の中には一定数いる。好戦的なのとはまた違う。
彼らは本音=苛立ちや怒りであり、「本音のコミュニケーションじゃないと建設的ではない」と考えているのだ。

激しく論争を重ねている会議を覗いた上司が「お!やっとるやっとる!それぐらいでなきゃいかんゾ(笑)」といったようなものだ。

『自分の意見を正直に言って、それが相手とズレていたら、徹底的に意見をぶつけ合う。そして、よりよい答えを導き出していく』

というロジックだろうが、まぁおかしい。

反対意見を衝突させて、より良い意見に鍛え上げて、練り上げていってうまくいく場合もある。でもそれは結果論だ。狙ってやるものではないし。回避した方が建設的だ。

僕たちジャパニーズには「和をもって尊し」としている聖徳太子のスピリッツがある。日本最強のヒーローである太子が言うことはやはり理に叶っていると思うのだ。

むかし僕も「弁証法」というものに取り憑かれていた時期がある。

「正(テーゼ)」があって、それに矛盾する「反(アンチテーゼ)」をぶつけたら、昇華(アウへーベン)されて、「合(ジンテーゼ)」が得られる‥‥とかいうやつだ。

なんか意見を言って、それの矛盾を言われたら、研磨されて、意見のクオリティが上がるというものである。

今思うとピンと来ない。

「言い合いは是」は机上の空論でしかないし、実際にやってみても「モメたらパワーダウンする」という事例が相次いだ。
僕たち人間は有機物だから、そこまでシステマチックにできていないのだろう。

日本人は戦う教育をしてないから良くないとか、論争なれしてない、とかディベートが弱いとか言われる。

いやいや、『争えない』って、そんな悪いことか、と思うのだ。

そもそもディベートの強者って、ただ『論理』という道具を使うのが、上手いというだけなんじゃないだろうか。

それはギターが上手いとか、足が早いとか、絵が上手いとか、そんなことと、たいして変わらない気がする。

だいたい実際に、やたらと反対意見を言ってくる論争好きがいたら、テーゼは、その先のいい道に行けるようになるのだろうか。

インターネットのなかにも、たくさんの対立や、無限に続きそうな論争がたくさんあった。今もある。でも、何かいい道につながったとは思えない。

「なれあいが良くない!」と決まり文句で言う前に、「なれあい」と「チームワーク」のどこらへんが違うのだろうかと考えたい。

「なぁなぁ」と「ツーと言えばカー」の違いはどうなんだろうか。

「気持ちの楽しい側のこと」を中心にして、いいこと、いけないことを考えていけばいい。「対立は美しい」という幻想で、無責任に話をややこしくするジジイはその落とし穴に気づいていない。

「対立的なシチュエーションでも、いい結果を出せるくらいに、理解しあった関係になりたい」なら、分かる。

ヘーゲルの説いた正・反・合の図式の効果も分かる。
だけど時が経ち、たくさんの人を伝い、その本質はずいぶん歪んだ気がする。

「進んで対立するって、なんか違くない?」というだけだ。

別の考えを「ぶつけ合う」というものでなく、別の考えを持ちながら「隣り合う」という発想に、実際、僕が助けられてきたからだろうか。


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