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バンドを続けている人間の話

古い友人の命日である。

「安全地帯」という音楽のグループがいるが、すごい名前である。

「音楽をやる」というのは「危険なロクデナシとして生きていく」と同義だからだ。警戒指数で言うと、ソマリア級だ。

そういう意味では、グループ名が「安全地帯」というのは激しくクレイジーだと言える。 

「俺にとって、ソマリアなんてお花畑でミルクを飲んでいるようなものさ。もっとハードな世界で生きているんだ」ということだろうか。パンクすぎる。ちなみに曲は聴いたことがない。

音楽野郎の人生は地雷原のようなものだ。

基本的に危険地帯を歩んでいく。酒、喧嘩、女、薬、貧困、自殺と、そこら中に落とし穴がある。

なんでこんな危険なことをするのか。

始まりは自己顕示欲と承認欲求の芽生えだ。この二つを素材として、鉄板に乗せられる。
ここに称賛、嘲笑、批判、比較などの味付けで炒められると言ってもいい。

年月がしっかり経つと、それなりの「中二病の炒めもの」が出来上がる。

学生時代は「ギター弾ける」だけでも「すごい!」と言われてしまうのが怖いところだ。

成人してからのバンド活動となると、タワーレコードにCDを並べだす。これまた「すごい」と言われてしまう。

想像よりも下位のレベルで、浅めの称賛を得られてしまうのだ。

当然、それでいい気になる。音楽をやる人間は基本的に馬鹿だからだ。

しかし、さらに上位のレベルにいくと、「けっこう頑張っても」称賛が得られなくなる。
「プロとしての苦しみ」と言えば、一応格好は付く。

しかし「いくら稼いでいるのか」や「いつまで稼いでいけるのか」と、無関係な外部の声も激しくなる。

「音楽だけで食べています」と言うと「すごいね!」と驚かれるようになる。

「すごさ」の指標を「食えているか食えていないか」にする人間は一定数いる。
しかし内容がすごければ、月収二万でも「すごい」し、内容がダサければいくら稼いでいようが「すごくない」はずではないだろうか。

芸を志しているのに、芸に関する驚嘆のモノサシを「金になっているか」で語る輩までいる。

こうなるとおかしくなってくる。人間というより豚みたいだ。

品種ではない。
ハンターハンターの「キメラアント編」に出てくるマサドルディーゴのような、自分で物事を考えられなくなって、ステレオタイプに染まってしまい、思いやりと想像力が欠如した人間だ。

音楽関係者にもウヨウヨいる。素晴らしい人格、実力者もたくさんいるが、スキマからたまに豚が顔を出す。

いくつかの後輩や仲間が豚の犠牲になり、汚されてしまったこともある。

「本人の責任」と言えばそうなのだろうが、金や将来をニンジンにされると、音楽家は弱い。

将来、夢、希望に関して、絶食状態だから正気を保てていないのだ。
減量中のボクサーにとっての水が、「将来、夢、希望」なのだ。目の前にぶら下げられと狂って飛びついてしまうときがある。

それでもバンドは続くし、貧しさを営み、時間は過ぎて、「中二病の炒めもの」は「お早めにお召し上がりください」とばかりに、だんだん傷んでくる。

そこにつけ込む輩は少なからずいる。

「金になんなきゃダメだよ。俺の言うとおりにしろよ」
「数字下がってるじゃん。辞めたほうがいいよ」
「もっと分かりやすくしないと売れないよ」
「ヤバイよ、三十歳なっちゃうよ」

人間の営みを見たまんまの通り喋るのは、豚以外の何者でもない。表面的なことしか見えず、営みと、そこに発生している事情をキャッチする共感能力、想像力がイカレているのだ。

経済的寿命、将来の展望、メンバーの思考回路。

それらを誰より心配しているのは、他でもない音楽家自身だ。

でも音楽家たちは時折、豚からすらも言われ放題になってしまう。言い返す自信、気力がいつも満タンなわけではない。
弱った心に執拗な豚詰めをくらい、サンドバッグになり、たくさんのメンバー脱退、休止、解散が引き起こされる。

力無き商業音楽家が、淘汰されることは摂理として仕方ないし、必要なものなのだろう。

「商業価値が無ければ破綻させて良し」と考えるひともたくさんいる。

「ギター弾ける」だけで称賛されていたはずなのに、ある臨界点である「それ、なんぼになんの?」というモノサシを当てられ、そうなると、一切褒められなくなり、存在すらも希薄になる。

権利商売が壊れていって、他の人間まで抱えていくスケールのビジネスじゃなくなっているのも大きい

レーベルの新卒の社員よりも、武道館を埋めるボーカルの給料のほうが安いのだ。
各バンドが「レーベルいらないや」となるのは自然の流れだ。
強いマネージャーや、必要不可欠なA&Rがいれば、話は違うのだが、これまた一緒に独立してしまう。

逆間接のように動かないマネーフローと、音楽と、人生を掛け算していくと、次第に音楽家はイカレてくる。

近づいてきた称賛がいつのまにか消えていて、自己顕示欲は膨れたまま、バグりだす。もはや将来のどころの騒ぎでもなくなる。

だが、音楽を辞めることなんてできない。そういう人種が一定数いる。

「気付いたらやめられなくなっている」というのは、ほとんどシャブである。

音楽の磁力は凄まじく、中毒者をなかなか離さない。壊れても、誰もいなくなっても、離してくれない。

「俺は二十七歳までに売れなかったら辞めるって決めてる!」などと、割り切って辞められるひとは幸せなのかもしれない。

僕は重症なのか、ある時期に致死量を遥かに超えてキメすぎたのか、辞められない位置にいる。

辞めたくはないし、続けてもいる。

でも「辞められない。止まれないもの」と考えると怖くもなる。
もはや「続けてる」よりは「辞められないでいる」のほうが表現としては近い。

それなのに飽きる様子もない。

音楽好きか?とか聞かれるとよく分からない。

少なくとも「続けてるから好き」、「辞めたから好きじゃなかったんだ」という思考回路は自分にはない。

その陰で、何人かのひとが泣いてもきた。僕が音楽をやっているせいで、起きた迷惑は数知れない。

もちろん自分が音楽をやっていること、やってきたことで間接的にもたらされたものもある。直接もたらした何かもある。

無意味でもないし、使い道がないわけでもない。

それでも「大好きです!」なんてアホ丸出しに言えるカテゴリでもない。

好き嫌いかの二元論のテーブルに絶対乗せてはいけないことが、人生にはいくつかある。それが「大切なもの、重要なもの」であるのは間違いない。

でもそのエリアが「危険地帯」なのは間違いない。

ある程度のデンジャラス指数があるほうが音楽的には健全だったりするのだから、余計に始末が悪い。

「危険地帯」に未だにいるが、「安全地帯」があれば、まるで違うとは思うのだが、それが今の自分には見当たらない。

むかしはあったような気もするが、いつのまにか無くなったのか、その程度の安全整備では足りなくなったのかは分からない。

コロナショックのせいで、どこにも行けなくなったミュージシャンが何人もいる。経済的な話ではなく、精神的な話だ。

わけのわからない、詐欺師とも呼べないイベンターもどきも増えてきた。よく見ると豚なので、気を付けないといけない。見かけたら、ちゃんと声に出して「豚が」と言うようにしないとならない。

自分のなかで、まだちゃんと許せないものがある安心感に身を委ねながら、ゆらゆら七月が消化されていく。

それにしてもここのところ、変な音楽関係者もどきが増えた。泥棒が増えているのは、ここが火事場だからだろうか。




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