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働く力が全然ない人間こそ!

空が火事になったみたいな夕焼けの中、交差点を猛スピードで車が行き来していた。梅田方面、豊中方面、心斎橋方面に車両が散っていく。

僕はそれを脇目に走っていた。河の音が聞こえてくる方を目指していた。

「おう、頼むから辞めてくれ」

さっきの声がこだまする。胃液がまた逆流しそうだった。

土手にようやく着いた。淀川を見下ろす。風が吹いてススキを叩いている。草木が無いと、存在に気づかないぐらい、ささやかな風だった。

夕焼けが反射して、宝石みたいに水が光っていた。vodafoneの携帯を見た。時刻は十七時半だった。

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梅田にそびえ立つスカイビルが真っ赤に燃える。ここから見えるすべてが美しく、ここに来る前に起きたすべてが汚らわしく感じた。

直近、二週間の出来事が頭でぐるぐると回る。

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「あの子、いつ辞めるんかな!?」

裏の休憩室から、店長の声が聞こえた。

他のバイトの笑い声もする。また、僕のことを言っているのだ。レジに立っている僕に聞こえないはずがない。分かって言っているのだ。
大声で刺さる悪口を消し飛ばすように、レジカウンターを叩いた。

コンビニのバイトを始めて、十日ほど経つ。それなのに、全然慣れなかった。人工透析の苦しみは永遠に感じるそうだが、匹敵するんじゃないか、というぐらいにバイトがつらかった。

「辛さを抱きしめる」で辛抱と書くが、抱きしめるどころか手で触れるのもはばかられるレベルだった。通勤前はいつも、死にたくなっていた。

簡単なレジ打ちぐらいはできるようになった。だけど、それより上の仕事が、ほぼできなかった。

宅配サービスがどういうシステムになっているのか、まったく理解できなかった。公共料金の支払いや、切手の売り方、チケットの受け取りも、よく分からなかった。商品の補充もできなかった。

令和になるとほとんどのコンビニに外国人がいるようになったが、どうして異国であんなに複雑な仕事ができるのだろう。持って生まれた資質だろうか。

平成十八年の当時、バリバリの日本人なのに僕はまったく仕事できなかった。

「なんで、こんなもんもでけへんねん!」
店長や先輩からしたら朝飯前なのだろうが、僕からしたらすべての業務が難解だった。

「すみません…」を千回は言ったと思う。

典型的なダメ店員だった。
しかしコンビニだけではなく、すべてのバイトがこうだった。そしてどの場所にも陰鬱な空気を送り込んでしまう性質、そのせいで、仕事を続けられず、生活費は底をついていた。

ガスや携帯料金を、滞納しては払って滞納しては払ってと、自転車操業で暮らしていた。支払いの千本ノックを受けているみたいだった。

本当なら辞めたいけど、時給720円のこのコンビニを辞めるわけにいかなかった。もう行くところがなかったのだ。

「…おい! おい、ライト!」

声がして、ハッとした。気がつくと、中年の男がレジに並んでいる。世の中の素晴らしくない部分を憎みきっているような瞳だった。

「ご、ごめんなさい」反射的に謝る。最近謝ってばかりだ。

「ライト!」男は繰り返した。

男は、デスノートの主人公の名前を叫び続けている。意味が分からなかった。動転して背中に汗がにじんだ。

「マイセンの、ライトや!ほれ、それや!はよせぇ!」

「かしこまりました。すみません・・・」

〈タバコなら、タバコって言えよ・・・〉

イライラしている男に、マイルドセブンのライトを渡す。ため息が出た。早く帰りたかった。

二十二時になった。ようやく帰れる。この空間から一刻も早く消滅したかった。

帰ってギターを弾きたかった。猛烈に、音楽に触れたくなっていた。音楽で、この気持ち悪さをすすぎたかった。

ただ、帰る前にやることがある。僕は深夜帯に働こうと思ったのだ。店長にお願いしなくてはならない。

昼はお客さんが多くて嫌だった。昼の先輩たちも嫌いだった。昼夜逆転はつらいが、昼の苦痛よりはマシに思えた。

「夜勤にしてもらえませんか…?」

店長はイスに踏ん反りかえって、携帯をいじっていた。
こちらを見もしないで「お前、面接で昼に入るって言ってたやろ。なんなん?」と言った。

「なんなん」と言われても、答えられない。「昼がしんどいから」とも言えない。適当なウソも思いつかない。
僕が貝のように口を閉じていると、彼は「もうええわ。じゃあ来週から、塚本の店舗で夜勤な」と吐き捨てた。

塚本というのは、隣り町だ。店長は店舗をふたつ持っていた。

「すみません。ありがとうございます」

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塚本は自宅から自転車で十五分とかからない距離だった。夜勤初体験の日、僕のパートナーは、田岡さんという先輩だった。

「ふつう一時間ごとに休憩するけど、めんどいからまとめて二時間ごとな」

夜勤は先輩と二人体制になる。交互に休憩して一人ずつ店番を行うようだった。夜勤は二十二時から、朝の七時まで働く。本来は一時間ごとの休憩だが、田岡さんは自分でシステムを作りかえていた。

「お前、先休めや」
「え?でも、いいんですか?僕、今来たばっかなんですけど」
「その方がええねん。めんどい。はよ行け」
「わかりました…」

出勤して、いきなり二時間もヒマになってしまった。「これなら、0時にタイムカードを押せばいいんじゃないか?」と思った。

夜勤は圧倒的に楽だった。起きているのはつらいが、嫌な店長や先輩もいないし、お客さんも少ない。

田岡さんとは特別、仲が良かったわけではないが、そもそも交代制なので、仲良くする必要もなかった。と書くほど、長く働いてもいないのだが。
なぜなら僕は、夜勤を三日間しかできなかったのだ。

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四日目の出勤日の夕方、僕は店長に呼び出された。

この店舗に行くのは、久しぶりだった。店長の顔を見たのも久しぶりだった。相変わらず、イライラした表情をしていた。

僕を見るやいなや、店長は口を開いた。

「川嶋。お前、二時間おきに休憩してるらしいな?」

急な質問に、僕は動揺した。

「え? はい。田岡さんにそう言われて、してます…」

「じゃあお前、田岡が『人殺せ』言うたら殺すんか!」

意味が分からなかった。
分からないが、どうやら田岡さんの考案した、二時間休憩制が違反だと、それが店長の逆鱗に触れているのだと、ジワジワ分かってきた。

「おい、みんな聞いたか!?コイツ勝手に休憩変えて、給料泥棒しているわ!そんで『田岡さんに言われてー』とか言ってんぞ!」

お客さんはいなかったが、昼のバイトの人たちが大勢いた。

みんなが僕を白い目で見ていた。少しずつ、笑い声が起こりだした。
胃が握り込まれたみたいに気持ち悪くなった。食べたものが出てきそうだった。生活費のことなど、頭から消えていた。とにかく、ここから立ち去りたかった。

「すみません。辞めます」と目も合わせないで告げた。

「おう、頼むから辞めてくれ」

怖いぐらい自然な「辞めてくれ」だった。

人が一人、退職するというのに、極めて日常的で、ふつうで、業務的だった。ゴミ捨てや掃除業務のように、日常のなかの、流れのひとつとして僕の退職は扱われた。

コンビニを出て、一目散に走った。この場所から、少しでも遠い場所に行きたかった。物理的に遠い場所でも、本質的に、心情的に遠い場所でもいい。とにかく、遠くに行きたかった。

走っている途中に、また気持ち悪くなって、電信柱のわきで吐いた。

通行人の視線が気になる。悲しくなった。悲しくて、たまらなかった。

怒りも感じていた。でもその混じった感情が、誰のせいか、何のせいかなのかは、分からなかった。コンビニの仕事ひとつできない自分に対してなのか、店長に対してなのか、他のバイトに対してなのか。

これからの予定も、何もなくなった。河川敷を見に行きたくなった。

僕は走りだした。何もないところで何度もつまづきながら、走った。

淀川はとめどなく綺麗だった。朝焼けも夕焼けも、昼の風景も、夜の月も。どんなときも美しかった。比べて、身のまわりに起きる現象は、汚れきっていて、見ているだけで目が潰れそうに思えた。

半熟の空にスカイビルが点灯した。空が藍色になってきた。

じっとしていると寒かったが、心地よかった。ススキが吹かれる音と、水の流れる音を聞いているうちに、落ち着いてきた。

「つらいことも、苦しいこともいつかは流れていく。あらゆるものは少しずつ流れて、見えなくなっていく」そう言っているかのように、淀川はただ流れていた。

見たくないものを凝視して、かじりたくないものに歯型を付けて、頭が割れそうなことを考え続けて、流れ続けていくしかない。

やりたいことをやるために、やらなきゃいけないやりたくないことで駆けずりまわる。それすらできなかった。そんな一日が暮れていった。

あれから十余年ほど経った。時間が経つと地獄も成仏するらしい。

「何もできない自分」が着火剤になり火が起きる日もある。そこに暖を取りに来る人がいたりもする。

「今が地獄もいったん生きる」は小さく灯る座右の銘だ。

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