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読書メモ:『偶然を生きる』1~3章

偶然を生きる (角川新書) | 冲方 丁 |本 | 通販 | Amazon

最近読んでいる九鬼周造の『偶然性の問題』から横道にそれて、積読していた冲方丁さんの『偶然を生きる』に手を付けた。
偶然について考えるにあたって役に立ちそうなことが書いてあったので、読書メモ的として残しておこうと思う。

はじめに

人間はなぜ物語を求めるのか?
物語は人間に何を与えているのか?
本書はこの2つの問いから出発する。著者曰く物語とは人間が自分たちの人生を理解しようとする試みだともいえるという。例えば、サイコロを振る行為はその偶然性の中に「未来(出目)はどうなるのか」という原始的な物語が見出される。サイコロだけでなく、人の生命や社会も予測できない偶然から生じるものである。人は誰でも偶然を生きていると著者はいう。
そして、物語づくりには偶然のリアリティを差し替えたり、動かしたり、改変することでその偶然性を必然として感じさせることが根本にあるという。
その偶然について考えることは、物語とは何かという本質を考えると共に、この物語であふれた世の中でどう生きるべきか、本当の幸せを掴むにはどうするのがいいか、人はどのようにして偶然を生きていくのかを考えることに繋がっていく。

(感想:偶然のリアリティという言葉は面白いと思いながらどこか自分にしっくり来てない感じもするので、偶然性について考える中で心に留めておきたい。)

第1章:「経験」の構造と種類

物語とは何か?
それを読み解くキーワードとなるのが偶然と必然だと著者はいう。偶然を考えるには人間の認識を確認する必要があり、そこで重要になってくるのが経験と体験だという。
すべての物語のベースには経験があり、それは人それぞれの固有の体験の集合体といえる。それに対して体験は、生物的な五感に加えて時間感覚によって認知されるという。この時間こそ人間の体験を価値づける重要なファクターであると筆者はいう。
五感と時間感覚を組み合わせた体験が集合していき、経験として共有される。経験には自身が経験して他人の役に立てられる直接的な経験と誰かの体験が元になって自分の役に立つ間接的な経験がある。
著者はこの経験に2つを加えて経験を4つに分類する。
①:「直接的な経験」ー五感と時間感覚
②:「間接的な経験」ー社会的な共有をされる経験
③:「神話的な経験」ー実証不能な超越的な経験
④:「人工的な経験」ー物語を生み出す源(想像力)
人間は生活の多くの部分で②の間接的な経験を生かして物事を判断している。現代において生きていくためには①と②の経験だけあれば十分だが、古代からの人類の活動を考えれば、③の神話的な経験が大きな意味を持っていたことが分かる。例えば、以前は月の満ち欠けは天文学的な理解ではなく、形の異なる九つの月が順番に出てきているというような神話的な説明によって理解されていた。つまり、①と③の経験だけがあり、②の経験はほとんど共有されていなかった時代があった。その後、文字や数字を発明し、科学や教育が普及することによって②の経験を蓄積することに成功した。その結果、多くの人間がかつてとは異なる知性を持つようになり、神話的な経験が影を潜め、間接的な経験によって成り立つ社会が築かれるようになった。

神話的な経験から巨大な社会を形成可能にする間接的な経験へ(③→②)、
この過程での試行錯誤を可能にしたものが④の人工的な経験、即ち、人間の想像力、物語の力であると筆者はいう。
物事を理解する手法として人間はまず因果関係を認識した。それと並行して数字、文字が発明され、されには文章、段落というものを作り上げていった。文章化されることで多くのことが明らかとなり、子々孫々に伝えられ文明が起きた。
ここで文章が人間に与えた影響について筆者は注目する。文章の役割は情報を伝えるだけではなく、「組み替え」を可能にしたことであるという。複数の文章を並べて何番目と何番目を入れ替えた時、違う意味が生まれてくることを知ったのである。それは情報を入れ替えて意味を変える作業によってそれまでとはまったく違う発想を生み出すことが可能になった。
そしてこの組み替えの技術は物語を自分の物語として置き換えて考えることを可能にした。②の経験と同様に架空の物語=フィクションを自分事として共有し、モノや考え方を広めることができるようになった。筆者はこのフィクションこそ社会を動かす力そのものであるという。
(③→②)の過程において④の人工的な経験は多くの人間を共感される道具として、バラバラの価値観を一つの価値観に集約し、社会の形成することに大きく貢献した。社会が未熟な時代にはこのような人工的な経験(物語)を考えること自体が社会を変えることと同義だった。しかし、現代の成熟した社会では②の経験によって急激な変化をできるだけなだらかにしようとする知恵が蓄積され複雑で堅牢な社会システムが構築されることで、1つの物語で社会を急激に変貌させることは難しくなっている。

そしてこの章の最後で筆者は文章の本質について考察する。それは物語の再生を目論む行い、温故知新であるという。過去の物語を理解する際に組み替えを行って現代に置き換えて考えることで過去の知恵を現代に活用する。このように物語を過去から現代へ、そして未来へと翻訳し直すことが可能になる。すなわち、組み替えによって因果関係を未来に向かって構築することが可能になる。人間に物語をもたらす④の人工的な経験は文章と密接に関係し、常に未来に向かってベクトルを放っていると筆者はいう。
(感想:読んでみた感じを文章にしてみたけど、途中かなり内容や順番を前後させることになった。それこそ組み替えの技術だが、それによって文章の本意があまり変わっていないことを願う。)

第2章:偶然と必然のある社会

物語によって人間は未来に向かってベクトルを放つようになった。では人間は未来に何を求めているのだろうか?この章では偶然と必然を考えることで人間が持つ幸福感、人生観の問題を考察していく。
人間は確実に起こる物事に従い続けるとダメになっていく面があると筆者はいう。自分が行動しても何も変わらない、すべてが必然となっているような状況はまるで時間が停止したように感じられる。ルーティンワークのような繰り返しの作業は②の経験が作り上げた社会的な目盛りに延々と従うようなものであり、①の経験が消え、③、④の経験も必要とされなくなる。人間はそのような状態を非常に苦痛に感じるようにできている。何故なら人間は未来に向かってベクトルを開いて未来を志向しているからだと分析する。
では何も定まっていないようなカオスな状態を人間が望んでいるかといえばそうでもない。未知なる所に自分を投げ込んだなら、それを意味づけして必然化して、そこからまた次の偶然に飛び込んでいく。単純に言えば、「偶然を欲する」衝動を人間は元来もっていると筆者はいう。新たな必然を自分の中で作りだしていき、①~④の経験において新たな可能性を追求する。そういう特性が他の動物とは異なる人間が「いまこうしてここにある」理由といえるのかもしれない。
特に①の経験の可能性の追求による自分の価値観の刷新は人生観や幸福感に大きく関与してくる。自分の五感を磨き直すことでそれまで見ていた景色が違うものに見えてくる。すべての自然や偶然を必然ととらえて、自分が生きている実感、至福を感じる。自分が生きていること自体が幸福となり、報酬と報酬にまつわる因果関係すべてが一体化する。そのエネルギーを人間は誰もが欲している。つまり、自分の物語を構築し、自分の人生を生きていくことを人間は欲しているといえるだろう。③や④の経験はその手助けをする。
また、筆者は②の経験(社会的な経験)と①の経験(個人的な経験)のバランスについても指摘する。②の経験によって構築された社会の秩序は、むしろそういった人間が欲する新鮮さのようなものを排除することで安定を保障する。社会は幸福や安全を感じる機会を保障してくれるが、個人の幸福や安全は個人で感じなければならない。社会的に与えられる報酬とは社会側の物語が用意したものであり、個人の物語の上での幸せとはイコールにはならない、幸せの代替品であると筆者は指摘する。
一方で、社会を発展させるためには個人の経験を②の経験に捧げていくことが必要になるのでどんな経験も無にならないという安心感がある。この点が社会という受け皿の最大の存在意義であると筆者はいう。
つまりは、他の①、③、④の経験を最終的に②に還元できるという安心感を元にして①の個人的な経験の可能性の追求が可能になっているのだ。私たちはこの②の社会的経験とその他の経験とのダブルスタンダードの中でバランスを取りながら生きている。
現在の急速に発達する情報社会の中では②の社会的経験が爆発的に膨れ上がり、①の経験から受ける感覚が希薄になり、③の経験がどんどんなくなることで個人の幸福がどこにあるのか分かりにくくなっている。そうした加速する社会が生み出す物語との付き合いかたを知るためにも①~④の経験を自覚していたずらに振り回されないようにすることが重要であると筆者はいう。

(感想:またかなり内容や順番を前後させることになってしまった。多分自分が偶然性という観点で読んでいるからこのようなまとめ方になってしまっているのだろう。もはや再翻訳の域になっている。「偶然を欲する」という言い方はまだ自分にはしっくりきていない。生物的な進化の傾向ともいえるかもしれないし、本文のように時間感覚の面からも捉えられるかもしれない。個人の幸福が感じにくくなってしまっているという指摘は、②の経験【情報】に加えて④の経験【娯楽】の増加もあると思った。とにかく時間を何に消費するのか、どうやって効率的に過ごすかが求められ過ぎていて①の個人的な経験の可能性の追求=個人の価値観を磨くことが困難になっていると思った。)

第3章:偶然を生きるための攻略法

経験はカオスであり、偶然が重なり合って成り立っている。だから人間はカオスから逃れるため、少しでも多くの未来を予見しようと欲する。けれども、もし未来に起こることの全てが分かってしまえば生きる活力をさえ失ってしまいかねない。人間はそういう矛盾した性質をもっていることを前章で筆者は指摘した。
サイコロを振ることはしばしば人生を生きることの比喩として使われる。自分の意志によって偶然性の中に身を投げ出すことがサイコロを振るアナロジーで表現される。その意志決定の根本には偶然があり、人間の行動は偶然の中にある。
人間はサイコロにリアリティを感じる。それを振ることによって本当に起きているかのような感覚を抱く。偶然に起こったものごとを自分自身の一部であると認識して受け入れる。神秘体験に接するのと同様にそれが必然であると考えてしまう。シンクロニシティの中に自分はいるのだという世界との一体感を感じる人間の原始的な認識様式がそこにあると筆者はいう。
そうした偶然を納得できる必然として感じる経験が人間の物語づくりの根本になっていると筆者は指摘する。サイコロを振ってどんな目が出るかは分からなくとも、そこで何かの目を出しているのがあくまで自分であり、他人がサイコロを振っているわけではない、ということが重要な意味を持っている。
偶然に起こったものごとを自分の意志や行動の結果として受け入れる。そうすることで行動範囲が広がり、経験が培われていく。培われた経験の分だけ自分の時間が進んでいく。その感覚が人間にとって1番の快感なのだろうと筆者はいう。
人間は常に時間を獲得しようとし、そこである種の快感を得ている。それは人間の時間感覚に基づく本能的なものであり、時間が短縮出来れば必ずメリットが生まれると考えるのが人間である。時間の短縮はいわば自分の生命の時間が拡大されたのと同じようなものであり、人間にとって本質的な欲望であるといえる。
偶然に導かれた行動の中で必然的だったと納得できるものにはある種のルールを当てはめて、それを積み重ねていく様式を人間は持っている。それはつまり、偶然の必然化を通して積み重ねた経験を抽象化することで物語を生み、延いては無数の物語が集合することで社会や文明が形成されてきたことを意味する。人間はこれまでの歴史の中でなるべく多くの偶然を経験し、それらを必然化するにはどうすればいいかを考えることで経験を高めてきた。
偶然を生きている自分をどれだけ自覚=理解することの重要性を筆者は指摘する。自分固有の未知の偶然を上手に必然化し、経験を培って自分の時間を生きていくには、環境が強制する外からの物語と自分の物語とのバランスをとる必要がある。
この社会で偶然を必然に変えて生きていくということには2つの意味があると筆者はいう。ひとつはサイコロを振るー自分自身が意思決定を担うことで自分がその偶然の主体であるという認識を得ること。もうひとつは、自分以外の人間にも適用できる人生の経験知を構築すること。後者は②の社会的経験であり、それに対する報酬を求めることができる。
どれを選ぶにしろ、それが②の社会的経験の枠組みの中で行われるゲームであることを理解したうえで、自身の決断と行動を価値づけて努力する方向を間違いように筆者は指摘する。自分の人生において「何をすれば攻略したことになるのか?」という根本的な決定が下せなければ、本人が人生のサイコロを振る機会は永遠に訪れないだろう。

(感想:またかなりの抜粋になってしまった。バランスのとり方の所とかもう少し上手く書けたかもしれないけど、勢いのままに書いているのでこれで
ヨシとする。偶然の必然化【偶然の引き受け】は以前の記事でも話題に取り上げた。偶然の中を生きていくためには、4つの経験を自覚しながら内と外の物語=価値観の違いを認識しながらやっていくが大事なのだろう。人間は社会的な生き物である以上、自分の物語だけでは生きていけないし、ある程度は社会の物語が与える目盛りに従いながらも自分の価値観を磨く必要がある。社会的な経験がもたらす安心の枠組みのゲームの中でいかに偶然を受け入れながら自分の物語を作っていくかということだろう。)

まとめ

自分なりにいいように解釈してまとめれば、
人間は物語を発明することにより、経験知の時間的共有を可能にし、それによって社会や文明を発展させてきた。
物語の登場によって情報の組換えが可能になり、過去から未来へ因果関係を構築し直すことができるようになった。そして人間は未来を志向・予想するようになり、できるだけ時間を短縮したい=生命時間を拡大したいという欲望、因果関係を重視する時間感覚を発達させた。
ここにおいて人間は偶然が重なり合って成り立つカオスの経験から逃れるため、少しでも多くの未来を予見しようと欲すると同時に、けれども、もし未来に起こることの全てが分かってしまえば生きる活力をさえ失ってしまうという矛盾した性質を持つようになった。
人間は経験の可能性を追求し、偶然に起こったものごとを自分の意志や行動の結果として受け入れ、行動範囲を広げ、経験を培うことを積み重ねながら社会や文明を発展させてきた。その根底にあったのは時間感覚に基づく本能的な快感と物語による経験知の共有に他ならない。
物語づくりの本質とは、偶然の必然化であり、偶然の主体となることで個人的な経験を磨き、自分の物語(人生)を構築することが可能になる。
その実践の場面においては、社会で生きていく以上、社会的経験によって保障された安心感の上で、神話的な経験と人工的な経験(物語)を活用しながら、個人的な経験を培いつつ、個人の価値観と社会的価値観とのバランスを取っていく必要がある。
社会という枠組みの中でどのように人生というゲームを攻略していくのか。
荒波を進む船のごとく、物語を通して価値観という羅針盤を磨きながら、個人的でもあり社会的でもある揺らめく存在として偶然の波の中を二重に揺らぎながら航海していく。そのためには人生の目標という宝物の座標を見つける必要がある。

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