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人生比較と後悔

<はじめに>

この文章は僕がすごく落ち込んで考え込んでいた時に途中まで書いた文章である。後日この続きを書こうと思ったが、どうしても書くべきものが思い浮かばなかった。

このまま消してしまおうかとも思ったが、メモみたいな感じで残しておこうと思ったので、未完ではあるが公開することにした。

もし、こういう締め方にしたらいいみたいな意見があれば是非聞きたい。
改めて言うが、この文章は未完であるのでそこだけは了承してほしい。

<1階>解放されたい自分

誰しもがこの世界の枠組みで生活し、誰しもが1度はそこから解放されたいと願う。宇宙船地球号は見た目とは違って意外と窮屈な場所なのだ。

窮屈な目に見えない幻想の中ではもちろん様々な人が存在している。自分が存在していくためにはその他人に目を向ける必要があるのだ。それが何よりもつらい。

他人は自分の持っていないものを持っている。あるいは自分が長所だと思っているもののさらに秀でたものを持っている。こういう事実に直面して、我々がこの社会においてできることは、「逃避」か「反抗」の二択なのだ。

自分をとらえるためには必ず客観的な視点が必要になると私は考えているが、それが行き過ぎると単なる比較に通じるか、自分下げに陥るのだ。

人間関係がどこにおいても主な問題として取り上げられるのは、解放されたくても解放することができない、したくないということが根底にあるのではないだろうか。

今は他人の人生が変に透けて見える。隣の芝生は青く見えるというが、そういうことに直面する機会が多い。

<2階>後悔のない人生を?

人の時間というのは言うまでもなく有限だ。そしていつ何時でも選択を迫られる。一つの人生しか歩めない我々にとって過ぎ去った道ほど喪失感があるものはない。

「後悔のない人生を」ということをみんなは言う。後悔しないために人生を生ききるのは大事である。

だが、誰にでも後悔をする瞬間はあるし何が失敗なのか答え合わせをすることもできない。何が必要な無駄で何が必要のない無駄なのかわからない。こうやってグダグダやっていることが真の無駄なのかもしれない。

こうなったときに無理やり答え合わせをするには他人の人生と見比べるしかない。これは強硬策である。

私は最近思うことがある。自分が死んだ後に、自分があの時下した決断と違った場合どうなっていたのかという枝分かれのチャートをすべて出してほしい。あの時こうしていたら、こうなっていたのかというのをどこまでも知りたいと思う。

まあ、そんなことは自分たちがバーチャルかつプログラミング可能な世界に住んでいないとできないだろう。

つまりは何度も言うが、客観的な視点でしか自分が分からない悲劇になるのだ。

<3階>自分を生きることの難しさ

では、「自分の人生を生きる」というのは虚言なのか。




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