タクオノレ

大学生/オノレライター/ウツミヤヒト/モヤモヤしていることを書きます。/新書ファン

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マガジン

  • オノレの、無意識不明

    僕が日ごろ感じている自分に関しての雑念をまとめました。

最近の記事

教養ってそんなものなのか?

第1章 教養としての○○ 最近というか、常々思っていることがある。それは「教養」に関しての問題である。 書店にまあまあな頻度で行くのだが、ビジネス書とか新書の売り場に差し掛かると、 「教養としての○○」 というような感じの、タイトルに「教養」という言葉が付く書籍が結構多いことに気づいた。○○に入る言葉は多岐にわたる。 今回ここではその一つ一つに難癖をつけたいわけではない。しかしながら僕はそこに猛烈な違和感を感じるのだ。 たぶんそのタイトル付けのフォーマットが使われ

    • 人見知りから愛をこめて

      ずいぶんと前回の投稿から間が空いてしまった。 時より自分の思いを今までのようにnoteにまとめようという思いがあったんだけれども、なんというか文章にするまでにならなかったし、ちょっと毎回こういう文を書き続けることが苦しくなる。 それ以上に、自分が今まで追い続けていた「自分とは何か」という問いに対してこうではないかというような答えが出たのが大きい。そのために本もまあまあな数を読んだ。 その中でもこの本にはかなりの影響を受けた。 平野啓一郎氏、「私とは何か」である。 か

      • 無意味に生きる~タモリ学を読んで~

        最近ふと書店で見つけた「タモリ学」っていう本を読んだんですけどね。タモリさんが何を考えているかについて迫った本なんですけれども。 これぜひ皆さんにも読んでいただきたい。とても面白い本だし、とてつもない調査がされている。 これを読んでいて、なんていうか肯定されるんだという風に思ったことがあり、それが「意味」について。 これまで僕は、自分が自分である意味だとか生きている意味だとか、そういうものにこだわって考えすぎたという風に思っている。 マニフェスト=デスティニー(明白な

        • 新書はいいぞ

          新書とは何か 皆さんは、「新書」を読むだろうか。 新書って、例えばこういうやつ。 正確に言うと、新書判(105×173mm)の本のことだ。文庫より縦長な感じ。 いろんな分野の導入としての知識が収まっていることが多い。その分野は非常に多岐にわたる。歴史、科学、宗教、哲学等々。 そしていろんなレーベルがある。岩波新書、ちくま新書、中公新書、講談社現代新書、ブルーバックスなどなど。 その中で新書の始まりは1938年の岩波新書の創刊であったらしい。 すごくたくさん、部屋

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        • オノレの、無意識不明
          8本

        記事

          勝手に作った第二の名前「ウツミ ヤヒト」

          <1階>命名 僕は単純な欲望として新しい名前を作ろうとした。 簡単に言えば新しい自分が欲しかった。 今更もう一つの理由をつけるとしたら、この間見たシン・仮面ライダーに影響を受けたともいえる。本郷猛でありながら仮面ライダーとも名乗るというのに単純に憧れた。 では、さっそくお見せしよう。これがゴロゴロしながら考えを巡らせて考えた、僕の第二の名前である。 「ウツミ ヤヒト」 ちゃんとしたもっともらしい読みになってしまった。すかした名前になったのが自分でも腹立つ。 これ

          勝手に作った第二の名前「ウツミ ヤヒト」

          新しい名前が欲しい

          <1階>唯一無二だけど 今現在においては、この世に自分は一人しかいない。今後脳みその情報がどこかに保存できるようになって、自分を複製できるようになるかもしれないけど。 自分が一人しか存在できないっていうのは僕にとっては窮屈な話だ。「一人しかいないからいいんじゃないか」という風に言う人もいるかもしれないけど、僕はどちらかと言えば自分数人と話してみたい、そしてどうせうまくいかないから取っ組み合いの喧嘩まで発展したい。 とはいえ、そんなことはできない。しかしながら違うことはで

          新しい名前が欲しい

          飽き性、僕

          あるときに友人からこんな質問を投げかけられたことがある。 「人生何が楽しくて生きてんの?」 その時はなんか濁して答えを言わなかった記憶があるが、今考えてみるとその答えは自分の中で明確だ。 何も楽しくないし、なんのためにも生きていない。 かっこつけでこういうことを言っているのではない。むしろ不満気味ではある。しかし実際問題そうだ。興味がでないことはないが、さらに気になるということはない。 少ないけれど取り組んできたことはあるが、全部途中で嫌いになって辞めた。やったこと

          飽き性、僕

          人生比較と後悔

          <はじめに> この文章は僕がすごく落ち込んで考え込んでいた時に途中まで書いた文章である。後日この続きを書こうと思ったが、どうしても書くべきものが思い浮かばなかった。 このまま消してしまおうかとも思ったが、メモみたいな感じで残しておこうと思ったので、未完ではあるが公開することにした。 もし、こういう締め方にしたらいいみたいな意見があれば是非聞きたい。 改めて言うが、この文章は未完であるのでそこだけは了承してほしい。 <1階>解放されたい自分 誰しもがこの世界の枠組みで

          人生比較と後悔

          たぶん一生自立できない僕

          <1階>いきなり正面に現れてきた自立 大学に入って、遠くに移り住んだことで今までかすんで見えたものが急に間近に現れた。それは「自立」だ。今まで環境に身を任せすぎていたと急に考えたのである。これは現代においては遅すぎる気づきなのかもしれない。 そもそも自分が甘えてきたとも気づいていない領域が急に裸になったのがまずかった。1年生の時の寮生活やそこから出たときの一人暮らしにおいて何ともない判断に途端に困ることになったのだ。 今の状態は「半自立」あるいは「3分の1自立」かもしれ

          たぶん一生自立できない僕

          空っぽな自分を見つめる

          <1階>自分について考えよう 皆さんは、「自分」という概念をどうとらえているだろうか?あるいはどういうときに使ったり考えたりしているだろうか。 「自分を大切に」とか、「自分軸で生きる」とか、「自分探しの旅に出る」とか。自分というものには様々な言葉がくっつく。 私はこのように「自分とは何なのか」という多くの人が考える話題を20歳を超えてよく頭の中で思い浮かべるようになった。僕がこんなことを考えるのは自分の名前が大きく影響している。 僕の下の名前は「拓己」と書く。己を切り

          空っぽな自分を見つめる