見出し画像

飽き性、僕

あるときに友人からこんな質問を投げかけられたことがある。

「人生何が楽しくて生きてんの?」

その時はなんか濁して答えを言わなかった記憶があるが、今考えてみるとその答えは自分の中で明確だ。

何も楽しくないし、なんのためにも生きていない。

かっこつけでこういうことを言っているのではない。むしろ不満気味ではある。しかし実際問題そうだ。興味がでないことはないが、さらに気になるということはない。

少ないけれど取り組んできたことはあるが、全部途中で嫌いになって辞めた。やったことへの執着はない。嫌いだから。

ゲームもあるが、絶望的にセンスがないことはわかっているので、途中からなんていうか消費するものに変っていく。

これを書いている日は何も用事がなかったので家にこもっていたが、何かしようと思って、本をとって読み、数秒後にはどこかにおいて、ゲームを点け、数分後に気づいたらやめており、ベットに入って目を閉じ、数時間に起きるなんていう繰り返しであった。

人と話すことも、一瞬の消費物だという風に考えるようになった。人付き合いは苦手だし、こういう風にネガティブだから、僕と話している方も何も楽しくないだろうなという心配を勝手にしてしまってしょうがない。

それでも日ごろはへらへらしながら、時に馬鹿にされながら、ハナから続かないと根底で思っている会話をしているのだからしょうがない奴だと思う。

よく、努力するのは才能だみたいなことを聞くが、興味を持つことも才能だと思うし、それを曲がりなりにもやってみようというのは人間が完成しているとも思う。

そういう意味では何か「楽しさ」をまとっているこの世の人間は自分よりずいぶんと上位存在だなと思って仕方ない。

現代はコンテンツを食い散らかす時代だと自分はかねてから思っているが、自分はその転がっているコンテンツすらなめて、一口かじって大半は終わる。この現代に生を受けた人間としてはずいぶんともったいないことをしているなと思う。だから、こう、「推し」みたいなものもできたことがない。

こういう人生だけれども、果たしてどうだろうか。「人生は暇つぶし」みたいなこともよく言うけれども人生を垂れ流している僕からすると、暇をつぶしていく中で何か自分を形作った人たちはラッキーだと思う。

こういうのがガクチカとかそういう経験論みたいなものにつながっていくんだろうと思うが、僕は面接のときに何しゃべろうか。なんもしていませんという風に正直に言おうか。半分あきらめの世界ではあるが、実際そうだもん。

暇をつぶす方法で人間できていくものだと思う。「私はこうやって暇をつぶしてきました」みたいなのを出してって最終的に言ってしまえば悩みだってその人の領域の一部になるわけだ。

その人が立っている場所っていうのはそういう風に自然とできていくんだろうな。キラキラしてる人でも、生き急いでる人でも、窓際にいる人でも。

でも暇を暇としてぼーっと過ごしている人(要するに僕)はこうやって何の脈絡もない殴り書きを書いたところで他人の領域に飲み込まれてって、そして何にも気づかないまま行きもできないくらい他人の領域でおぼれてって人生を終えていく。

まあ、でもそれもまた一興か。そこから泳いで抜け出すエネルギーをたぶん比較によってみんな生み出しているんだろうけど、正味僕はだいたいの人が上位存在だと思っているからできないなぁ。

でも早死にしたいとは思わない。たぶんどこがリミットかわかっていないから。困ったもんだ。何がリミットか、何がゴールなのか。


今回はこういう殴り書きでした。鼻で笑いながら読んでください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?