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01.サッカーとの出会いと学生時代

はじめまして、1992年兵庫県明石市で生まれ育ちました西原拓夢です。

幼稚園の頃からボールを蹴って遊び始め、小学1年生の時から27歳の今なおサッカーをして生活をしている。

子供の頃に思い描いていたサッカー選手像とは少し違ったかたちではあるが、今思うと自分の成長のためにはこちらの方が自分らしく良いと感じている。

サッカー選手、と耳にすると花形な仕事と思われがちだが、自分は決してそうは思わない。Jリーグの経験が無いからそちらの世界は分からないのが現状だが、外の世界でしか味わえない体験や現状なども伝えていけたらと思う。

そう、僕は東南アジアの国々でプロサッカー選手として生活しています。その流れや経緯については後々詳しく書いていこうと思う。

そんなサッカーを通して自分が形成されていると思う。もっともっと自分磨きをして成長していき、色んなものに目を向け吸収していけるように、生活していきます。

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先ほども書いたが、幼稚園の頃からボールを蹴っていた。小学1年生の時から本格的に小学校の子供会(人丸FC)でサッカーを始めた。毎日公園でボールと戯れて練習して育ち、誰よりも負けず嫌いで練習でも試合でも負けると泣きまくってた。

特別すごい選手と言うわけでもなく、明石市の選抜止まりの実力でしたが、チームではキャプテンを任された。ワガママ・自己中心的な考えの自分に嫌気が指しやめていく選手も沢山いた。

中学では親に無理を言い(金銭面で)、明石市の選抜メンバーが毎年集まるクラブチームに入った(リベルタ明石FC)。市内では負けなしのチームだったが、周りのチームメイトが上手かったので、そこでは自分を上手く出せずにいたように思う。そして高校受験。サッカーで強いところに行こうと思い、関西学院高等部にアタマの受験を試みるも落ちる。市内でそこそこサッカーが有名だった明石城西高校に入学が決まる。

僕のサッカーに対する気持ちがこの場所で芽生えた。1年生の時に、自分は応援で、同期のやつが3年生の試合に出ていた。悔しくて悔しくて堪らなかった。そこで何を思ってか、ある日の朝、陸上部の顧問のところへ行った。“陸上部の朝練に参加させてください”と。

県では有名な城西高校の陸上部。1年の夏前から朝の練習に参加させてもらった。毎朝7時に陸上トラックへ。100m・200m・400mとバンバン走り込む。足の遅い自分は10mくらいいつも離されていた。女子と走っても離されていたくらいだ。でも恥ずかしさを堪えて3年間一度も休まずに続けた。ここでの経験が間違いなく今の自分像を作ってくれた。

高校2年の総体初戦前日。監督から“明日お前を使う” と初の公式戦へ。3年生の先輩をベンチに、そして自分がスタメン。その先輩は悔しさがあるはずなのに“早く点とってきてくれな、俺早く出たいから”と後押ししてくれた。

その試合でハットトリック。そこからスタメンの位置を奪った。

高校3年。自分は自らキャプテンを立候補し、任された。自分は本気で全国を狙っていた。朝は陸上部に参加させてもらい、学校終わりはサッカー部、そして親に“お小遣い要らないからKONAMIスポーツ(ジム)に通わせてくれ” とお願いをし、部活終わりは毎日夜遅くまでジムで筋トレをする毎日を送った。それくらい本気だった。

しかし後輩にスタメンを奪われ出れない日が続いた。キャプテンを辞めると言った時もあった。そんな時に転機が訪れた。監督が変わった。

そこからは元々コーチをしていた方が監督にまわり、自分を信頼してくれていたため、スタメンに戻った。“お前はキャプテン。どんだけ疲れていても俺はお前をフルで使う”と。

結果としては県総体・県選手権ともにベスト8。兵庫県1部リーグでは城西高校史上初となるリーグ優勝。関西プリンス昇格の参入戦で敗れたが、歴史に残る結果となった。

そんなこんなでこの高校でサッカーが出来、本当に良かったと心から思える全力で駆け抜けた3年間だった。選手権終わりにキャプテンとして、高校のグランドで夜胴上げしてもらったことは一生忘れないだろう。

大学では?それ以降の自己紹介は次回にしたいと思う。VAMOS

たくむ



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