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ソーシャルディスタンス

森の木々は自身の枝をとなりの木々を脅かすほど成長させない。多様性のある共生とはまさにこんな姿だと思う。競争経済ではなくウェルビーイングな幸福度を優先した社会における人と人の距離感もこうあって欲しい。

話は少しそれるが、幾何学のシンプルな美しさを見出したモンドリアンの話をしたい。

よくある木のスケッチの変遷についてはこちら。
https://www.google.com/amp/s/guchini2.exblog.jp/amp/23203179/

自然の中に幾何学の美を見出したモンドリアン(やコルビジェも)の業績は現在でも続いており、建築やプロダクトデザインの美意識の礎にもなっているはずだ。ただ、すっかりと幾何学的な美しさに慣れきってしまい、そもそもこの美しさの根源が自然にあるという事実など、私は歴史を勉強するまで知らなかった。むしろ、この幾何学的な美しさは自然と相対するものだとすら思っていた。

この幾何学的なデザインはシンプルさ故に大量生産体制と相性がよくたちまちに世界を席巻し、度重なる俗物化という試練を乗り越えてどんどん研ぎ澄まされていった。また、たくさんの人々に行き渡ることを目指した結果、無駄のない“用の美”まで併せ持つことも求められた。そして、誰しもが両者を兼ね揃えたスタンダードを目指した。スタンダードという席は一つで、その席に座れなければ、あとは身勝手なものになってしまう。一つの規範を作った結果、それにそぐわない”間違い”も同時に産んでしまった。

競争社会と大量生産の功罪を樹木に喩えると、一本の木が大樹になって、他の樹木の領域を犯して寄せ付けない姿に思える。一本の大樹がある風景が醜いかというそうではないし、それはそれで自然な姿だ。ただ、孤独な巨大な樹木を神格化して宗教的な存在にしても、多様性がある風土は生まれない。この大樹に実ったアップルを人がかじってさながらアダムとイヴのような罪を背負って悩むにはあまりに重い。(別にこの構図はアップルに限ったことではない。)