見出し画像

修士論文を書き終えてやっと見えたこと

こんにちは。カナダの現地高校で現役数学教師をしているミスターウメキこと梅木卓也(うめきたくや)です。この3年間、高校教師として働きながら修士プログラムを地元のサイモンフレイザー大学でとっていたのですが、そこで最近やっと書き終えた修士論文について書いてみたいと思います。

フォローやコメントよろしくお願いします▷ https://linktr.ee/takuyaumeki

修士プログラム

カナダの先生はほぼすべての先生がディプロマ(30単位以下)か修士号をとります。これはそれぞれが専門性を高めるうえでも大切ですが、もっと大きなモチベーションとしてはお金があります。ディプロマか修士号を取ると給料に直接影響します。

カナダ特にバンクーバーのあるBC州では給料は勤続年数かどのような教育を受けたかで決まるため、管理職の影響は一切ありません。そのためディプロマか修士号を取ることで、勤続年数にもよりますがカナダドルで5000ドルから10000ドルくらいの年収(≒53万から106万円)が増えることになります。このような背景もあってそれぞれの教員が自分の興味に合わせてディプロマか修士号を取ります。

ほぼすべての教員がディプロマか修士号を取るので、働きながら履修することができます。多くはオンラインか週に一二回程度対面で集まるというもの。例えば僕が取った数学教育の修士プログラムは週に一回仕事終わりの4時くらいから8時くらいまで集まり、様々な数学教育のトピックについて議論を交わしました。

普段授業をこなしているだけでは見えてこないメタな視点で仕事を俯瞰することができてよかったなと思います。例えば様々な授業法について考えたり、テクノロジーを使って授業を作ってみたり、先生としてのバイアスを見つめてみたり、数学教育の問題点について考えてみたり、毎週のように新しい視点に気づく機会にあふれすべての算数・数学教員にとってほしいと思うような内容でした。

2年間をかけて数学教育についてのコースを終えて、最後に自分の興味に沿って簡単なプロジェクトをするか、研究課題を定めて修士論文を書くか選択することができます。前者はMEdという教育の修士号を取ることができ、後者はMScという科学の修士号を取ることができます。

どちらを取ろうが給料への影響は同じなのですが、後者のほうが研究者として講演や研修会をする場合少しは拍が付くようです。僕としてはどうせ修士をするなら何かしらのことを「研究した」と言えるようになりたいと思いMScを目指すことにしました。

修士論文を書き終えて

この修士論文は最低でも100ページ以上書かないといけないらしく、今まで書いても20-30ページ程度しか書いてこなかった僕としては大山を登るような作業になりました。

「イントロダクション」からスタートして、「最近の論文の傾向」、「研究のメソッド」、「結果と考察」、そして「結論」すべて一通り書き終えると30ページ程度にしかなりませんでした。これを3倍以上にするなんて無理だーと投げ出しそうになることもありました。

でも無理して100ページ以上書いてみると不思議なことに、それぞれのパートが絶妙な具合で意味を持っていたことに気づかされました。「イントロ」では読者に配慮しながら、専門用語を使うことなく研究対象を浮かび上がらせることが大切なのだと気づかされました。「最近の論文の傾向」の部分では専門用語も交えながら、数学教育において研究対象がどのような意味を成すかについて考察をしました。

「研究のメソッド」では、観察できることをいかに論文の中のセオリーと組み合わせられるかについて考え、「結果と考察」では観察できるデータを使い、そこから意味合いを読み取り、そこから見えるパターンについて考えたり、実際にとれたデータがどのようにセオリーとつながり、そこからどんな意味が浮かび上がるかについても考察しました。

「結果と考察」の部分でもうすでに語りつくしたと思いましたが、いざそれぞれのデータから読み取れたことを総括した「結論」の部分では、また新しい気づきがあり、最後の最後まで書きながら気づきまた書きながら気づくの連続で非常に楽しい作業となりました。

修士論文での気づき

一つ一つの細かな内容を書いても読者にとってはつまらないものになると思うので、この修士論文を書き終えてわかったことをいくつかシェアしたいと思います。

一つは今までの僕の教え方はより生徒にとって理解しやすい、吸収しやすい内容にすることに心を砕いていたということ。だから様々な例えや、説明を使って生徒の「あーなるほど」を生徒から引き出すことばかりに集中していました。かみ砕いてかみ砕いて小鳥が食べやすいように親鳥が咀嚼するように、そんなことばかり考えて教えていました。

「答えのない教室」(Building Thinking Classrooms)ではこの咀嚼する部分も含めて生徒自身でできるようにしてしまうというもの。もしかしたらそんな高度な思考が必要なことは教員にしかできないと思われるかもしれません。

それができるんです。ではどうすればできるのでしょう。簡潔に言うと、思考ができてしまう環境を整えることです。環境を整えると、教員の特権であった咀嚼する部分が、生徒にもできるようになるのです。この環境整備、誰でも始めることができるのですがそのニュアンスまでうまくつかむにはかなりの時間がかかります。

僕の研究ではグループワーク内でどのような問題をどのような段階を踏みながら与えるか工夫することで、生徒は自然と思考できるようになっていきました。簡潔に言うと、問題のレベルを登りやすい階段式に、しかも同じ解法をより発展させるような作りにすると思考はより深まりやすくなります。

反対に問題のレベルを急に上げすぎたり、一問一問全く違う解法を必要とするような問題ばかり与えると、誰かに頼る傾向は強まり、試行錯誤する傾向は弱まるようです。

まとめ

生徒自身が咀嚼できてしまう数学。これは環境整備によって可能になる。様々な考えのあるグループ内だからこそ、お互いをサポートしながら咀嚼が可能になる。毎年の学びの中で「答えのない教室」(Building Thinking Classrooms)をさらに深めていきたいとこの論文を書く中で改めて思いました。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。ディフェンスが終われば論文(英語です)を皆さんにシェアしようと思います。そのときはSNSなどでシェアするのでよろしくお願いします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?