映画「E.T.」からコミュニケーションの原型をさぐる
宇宙人と出逢ったら、どうやって会話する?
1982年に公開されたこの映画、
当時はとくに圧倒的な人気を誇っていたそう。
アメリカでは公開当時、チケット購入に3時間、
映画館に入るのに3時間の待ち時間だったとか。
今でもSFの名作といえば必ず名前が上がってくるし、
大好きな映画である人も多いんではないでしょうか。
今回U-NEXTで2回、鑑賞しましたが
やっぱりすごい。
2回とも、ラストシーンでは号泣となりました。
どうしてこれほどまで
感動を呼び起こせるのか?
主人公エリオットとETの強い絆を
ネタバレ込みで
「コミュニケーション」の観点からさぐっていきます。
「人の気持ちを考えなさい!」
主人公たち家族が夕食をしているシーンで
宇宙人を見たんだと言う主人公エリオットは
家族の誰にも信じてもらえず、苛立っていました。
そこでついお母さんにひどいことを口走ってしまい、
兄のマイケルに諭されます。
「少しは人の気持ちを考えたらどうなんだ!」
なんてことない、よくある説教の言葉ですが
映画を通してエリオットが成長していくポイントを
さらっと言い当ててるように思うのです。
人の気持ちを考えるのは、
コミニケーションの基本でもある。
このあと、ETと出逢って友情関係を築いていく中で
「人の気持ちを考えること」を身につけていっている。
学ぶとはマネすること。これ宇宙共通。
チョコレートのお菓子でETを部屋までおびき寄せたシーン。
幻想的な月明かりの中で出逢った場面からここまで、
言葉による疎通はありません。
自身の子供部屋までETを無事招待できたエリオット。
何気なく鼻をさすると、同じ動作をするETに興味津々。
唇をさすったり指を立てたりする動作を
ぎこちなくもマネするET。
二人の友情の出発地点であり
初めて「コミュニケーション」らしきものを取れた瞬間でした。
ここで面白いのは、
単純なミラーリング(鏡の位置関係)ではないということです。
純粋に見えるまま、動作をマネするのであれば、
左手を上げたエリオットに対して
ETは右手で応えるのが自然。
それがここでは、同じ左手で指を立てています。
鏡のように、ではなく相手と同じ左手を上げられるということは
一旦相手の立場になっているということ。
兄の説教の「人の気持ちを考えろ」の片鱗が
ETはすでに身につけている?と考えても言い過ぎではない気がします。
このあとも、比較的じっくり時間をかけて、ゆっくり静かに
動作をマネして、身体的な同期を深めていく。
最後は眠くなってきたETに影響されて
エリオットも睡魔に襲われ、そのまま朝を迎えることに。
後に二人の脳波が同期していたことが明らかになるのです。
文字通り、一心同体になっていった。
大人たちは徹底したディスコミュニケーション
ETと心を繋げられたエリオットでしたが、
真逆を見てみましょう。
盗聴によってETがエリオットの家にいることを
つきとめた関係当局の大人たち。
逆光と顔面マスクで顔が見えない(見せない)人間たちとして描かれます。
表情が豊かに刻まれるETとエリオットとは反対の存在。
彼らは挨拶もなく、ETを捕まえるため乗り込んでいくのです。
これでもかというくらい
消毒、滅菌が徹底されて、
「お前から発するモノは1ミリも受け取らないよ?」
という態度。
顔が見えない上に名前もなく、
受容する気もさらさらない。
コミュニケーションの断絶が描かれています。
しかしさすがスピルバーグ、
少しだけ、大人たちへの余地を残しています。
ETが瀕死の状態だとわかるや
救命措置をする医療従事者たち。
彼らはフルフェイスのマスクでありながら
顔の部分は透明になっていて、表情も見えるようになっています。
さらに、ある時点を超えると、それすらも取り外して
素顔を露わにする大人たち。
ETに対して、「慈悲」が生まれた瞬間には、大人も素顔を表している。
何が何でもディスコミュニケーション!
・・・というわけではない。慈悲もある。
人間側にも少しの希望を与えているようです。
「ココニ イル」
物語は佳境に入っていきます。
いよいよETの命が絶たれるかという場面で
言葉を交わす二人。
これまでの二人のコミュニケーションは
ほとんど非言語でのものでした。
往生の時に初めて、「会話らしい会話」が行われます。
コミュニケーションの本質が露わになった瞬間だと思います。
「ココニ イル」というのはつまり
「存在してるよ」。
私とあなたは「存在」してるよね?
確かめ合うだけでいい。
一緒にいることを確認し合う二人。
交わされる言葉の意味は、たったそれだけ。
お互いの存在が確かめられないところに
コミュニケーションが生まれうるはずがありません。
コミュニケーションの根本、大前提を
鮮やかに突きつけられ、二人の絆の強さが
ここに示されるのです。
存在に、距離は関係ない
お別れの時がやってきます。
寄り合わせで作った手作り発信機は
救難信号を仲間の元に届け、無事お迎えがやってきました。
じっくり時間かけて抱擁したあと
別れを惜しむエリオットに
頭を指差しながら、ETは言います。
涙なくしてして見れない鉄板の名シーンでありますが
ここでも、最終的に伝えようとしているのは、
「存在」のありか。
離ればなれになっても
宇宙の果てに行っても
ずっと「存在」は消えないよ。トモダチ。
悲しみに暮れるエリオットの表情に
一縷の光が差し、
力強く、噛み締めながら、言います。
「さようなら」
まとめ
最後までお読みいただきありがとうございました。
蛇足的に付け加えたいことが一つあって、
ETが植物を採集しにきたという事実。
冒頭、地球に降り立った宇宙船。
なんとその内側を惜しげも無く見せてくれます。
地球のものではないらしい植物が所狭しと。
ETの仲間たちは付近の植物を採集していく様が映されます。
ここでわかりやすく、地球には植物を採集しにきたのだと
伝えられているので、ETは植物と密接な関係(研究者?)と考えても不自然ではなさそう。
宇宙人の一人が、
街の夜景に見惚れてしまい
人間が襲ってきたときにはぐれてしまいます。
後に主人公と出会う、ETでした。
最近の研究で、
植物もどうやらコミュニケーションをとっているということがわかっています。
隣接した同じ植物は、生命維持のためテリトリーを共有しているとか。
茎の生え方や根っこの伸び方でお互いを気遣っているとか。
コウモリの通信システムにもアクセスできるとか。
「仲間」という意識があるのかもしれないとのこと。
そう考えると、
ETのあの先んじたコミュニケーション能力は
植物が行なっているものと似ているのではないか?
更なるコミュニケーションの開発のために
植物を採集しにきたのではないか?
と勘ぐってしまうのは不自然でしょうか?
・・・と、勝手な想像をおいてみました。
今回は、コメントしていただいた
G-darkさんのリクエストにお応えさせて頂きました。
おかげさまで、この映画を通じて
新たな気づきを得ることができました。
この場を借りて、御礼申し上げます。
ありがとうございました。
ここまでお読み頂きありがとうございました。 こちらで頂いたお気持ちは、もっと広く深く楽しく、モノ学びができるように、本の購入などに役立たせて頂いております。 あなたへ素敵なご縁が巡るよう願います。