日本史と英語教育(メタ認知エッセイ)

『絶対に挫折しない日本史』(古市憲寿, 2020)を読んで考えた雑感をまとめておきます。

森も木も見よう

単純化は巨視的な視点を強調する

今回、本書が私にとって適切であったのは、思い切った単純化をしていたからです。
歴史学習をする際、学校教育の文脈であれば、評価をしなければならない都合上、細部の理解が求められたと思います。
しかし、「面白い日本史が読みたい!」というコンセプトのもと本書は歴史を巨視的に描いており、おかげで日本史という物語の繋がりを意識しやすくなりました。

何かを学ぶ際、単純化は非常に効果的です。

例えば、小学生に初めてサッカーを教えることを想定しましょう。
その際、「11人で1チームを構成し、異なる2チームが得点を競い合う球技である。ボールを腕より先以外の身体で相手陣地内のゴールに入れると得点となる。」のような言い方ではなく、「ボールを蹴ってゴールに入れよう」で十分なはずです。
細かいルールは実際にプレイしたり見たりする中で身についていきますよね。

細部にこだわって全体を見逃してしまうことはよくある。

このアナロジーを英語教育に適用させてみましょう。

現代の英語授業観には、伝統的な文法訳読式授業に対する批判が前提として存在するものが多くあります。
例えば、「文構造解析自体が授業の目的となり文章の主張や要点を読み取ることが目的となっていない」のようなことが解説書等の「前書き」で挙げられることがあります。

はたして文法訳読式授業は、効果的な英語学習を妨げるのでしょうか

私自身、諸先輩方がそういった授業を展開しているのを見たことは少なくありません。
同時に、非常に高度な英語力を育成している実践もまた少なくありません。

成功事例の共通点は何なのでしょうか。

一つには、「学びを体系化している」ことがあると思います。
つまり、各単元での学習内容同士を結び付け、それらを用いて「どう読む(書く、話す、聞く)か」を明示的に指導しているのです。

細部の理解が全体の理解に繋がっており、また全体の理解が細部の理解を助けている、このような往還がある指導ができる指導者は多くはないように思います(少なくとも、意識的にそれを行っている人は)。

こういった指導を「トップダウンとボトムアップ」や「部分的訓練と統合的訓練」と呼ぶのでしょう。

細部にこだわること、それ自体が悪いのではありません
全体の視点を忘れて細部同士の関係を見失うのが良くないのです。

今回、初歩的な歴史学習を通して、英語教育における視座を得ました。
「森も木も見れる」そんな学習を促していきたいですね。


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