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ウォリおの経歴・学生時代編・1979年2月(0歳)〜2001年3月(23歳)

自分なりにがんばって41年間生きてきたので、様々な経験があります。

うまくいかなかったことや、うまくいかなかったこと、うまくいかなかったこと、うまくいかなかったこと、うまくいったことなど。

私の経験やノウハウがあなたのお役に立てるかもしれませんし、そのコメントからご縁が深まる可能性にも期待してウォリます。

私の経歴の中で、興味があるテーマがあれば、コメントで教えていただけたら嬉しいです。

シンプルに「○○のテーマに興味があります」とコメントください。ご縁に感謝です。

1979年2月(0歳)横浜市出身

生まれた時から毛深かったそう。おちんちんが小さ過ぎて「生殖機能に問題あるのでは?」と心配していたそうだが、今はすっかり3児のパパですので問題ありませんでした。

1983年4月(4歳)幼稚園入学

今はすっかりオシャレタウンになった「たまプラーザ」で過ごす。当時は駅前は何もなかった気がする。

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とにかく争いごとがキライで、友だちが殴り合いのケンカを始めると、そーっと家に帰っていったとのこと。このころから勉強ができていたそうで、近くの小学生の勉強プリントを見て「ここ間違ってるよ」と勝手に添削していたらしい。

幼稚園で「将来何になりたい?」との質問項目があり、何も思いつかなかったので適当に「バスの運転手」と書いた記憶がある。

1985年4月(6歳)小学校入学

バッターの後ろをうっかり通って顔面にフルスイングされたり、排水溝の蓋を開け閉めして遊んでたら足を挟んで爪が剥がれたり、ケガが多かった記憶がある。

1986年3月(7歳)岡山県岡山市に引っ越し

父親が転勤族のため転校生活。不思議と転校は全くイヤではなかった。岡山は小学校なのに制服、年中半ズボンで寒かった記憶がある。

1988年4月(9歳)千葉県柏市に引っ越し

柏の小学校は私服で、男子の間ではジャージが流行っていた。ジャージを着る私を見て、母は「息子はすっかり千葉の田舎者になってしまった」と思っていたらしい。

1988年12月(10歳)国立学院予備校入塾

母親から「塾の冬季講習に通ってみない?」と言われ、断る理由が見つからず承諾。冬季講習の終了時に「このまま塾に通ってみない?」と言われ、またまた断る理由が見つからず承諾。知らない間に私立中学合格を目指すことになっていた。当時の自分は大学に行く理由もわからないし、大学に行こうともまったく思っていなかった。ちなみに2020年12日現在、私の兄弟・両親・両親の兄弟、妻・妻の兄弟・妻の両親・妻の両親の兄弟に大卒者はいない。

塾の指導方針は超・スパルタ。今なら体罰で即・逮捕されるレベル。満点でなければ算数のO先生にビンタされていた。国語の先生には黒板消しで頭を叩かれてコブができ、社会の先生にはプラスチックの某でお尻を叩かれてアザになる。6年生の時は週6日×1日4時間の塾通い。ファミコン禁止。ストレスで円形脱毛症になる。

1990年6月(12歳)恩師が好きなものに気づかせてくれる

スパルタ講師の中、唯一「勉強の楽しさ」を教えてくださったのが、算数の金谷先生。友達同士で「勉強を好きなやつなんていない」と盛り上がっていたところ、金谷先生からがポロっと「小宇佐、算数好きだよな?」とおっしゃって「あ、自分は算数好きなんだ!」と気づく。この発言が算数・数学に対する自己肯定感を爆上げし、その後「自分は算数・数学が好きなんだ・得意なんだ」という意識で生きるようになる。

*後日2018年と会食し、再開を果たす。

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「算数好きだよな?」の出来事を、先生はまったく覚えていなかったが、このひとことのおかげで私の人生は変わったと思っています。ありがとウォリございました。

1991年2月(12歳)私立早稲田中学校合格

中学受験では5校を受験し、なぜか第一志望だけ合格。

*詳細は後日に記事化予定

合格後は自転車・スーパーファミコン・電子手帳など、いろんなものを買ってもらえた。ただし「合格したらビーグル犬買ってあげる」という約束は果たされなかった。「家が社宅だから」という理由だったが、それは合格前からわかっていたことだったはずで、未だに釈然としていない。

1991年4月(12歳)私立早稲田中学校入学

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中学校受験は「親の期待に応える」ことだけが目的だったため、入学後は一切勉強せず。家にテニスコートがあったのと、学校の校庭がオムニターフでテニスをするのに最適な環境だったため、テニス部に入部。だが運動音痴で身体を動かすのも好きではなかったため、すぐに行かなくなる。スーパーファミコンやプレステ2に没頭する日々。ドラクエ・FF・三国志・成績はずっと下位一割で安定。英検3級も1回落ちている。

通学時間は片道1時間半。常磐線は毎朝地獄の通勤・通学ラッシュで、「電車に乗らない生活」への憧れが強まる。帰り道は網棚に捨ててあるマンガを拾って歩き、友だちに100円で売っていた。月曜日はジャンプ、水曜日はサンマガ、木曜日はヤンジャン。

1994年4月(15歳)私立早稲田高等学校入学

中高一貫校だったため、高校受験はしていない。1学年約300人で、成績が優れない5人ほどは高校に進学できないのだが、なんとかセーフ。バンドよQueenに大ハマりする。「自分も音楽をやりたい」と思い立ち、「アコースティックギター同好会」を設立。放課後は部室でギターの弾き語り漬けの日々を送るようになる。

同好会メンバーでバンド結成(バンド1回目)

文化祭の後夜祭で演奏することになり、体育館で張り切って演奏するものの、ヘタクソ過ぎて演奏中に退室する人が続出。トラウマ。

1996年12月(17歳)早稲田大学人間科学部推薦枠獲得

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早稲田中学校・高等学校は、付属校ではなく係属校という扱い。何が違うかというと、そのまま早稲田大学に推薦進学できるのは、1学年300人中100人ていどの枠しかない。私は成績は下から1割だったのに、なぜか推薦枠を獲得できた。

1997年4月(18歳)早稲田大学人間科学部入学

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6年間の男子校生活から解放され、同じ学校に女性がいることに驚く。かわいい女の子を見るとすぐ惚れる体質になるも、告白してはフラれる日々を過ごす。完全に大学デビュー組。

早稲田祭に憧れて大学進学したが、1997年〜2001年は学園祭運営部の補助金使途不明問題で学園祭は開催されず。たまたま入ったゼミが、私の卒業後に超・名門ゼミへと成長。後輩はマスコミ関係者やアナウンサーが多数。

バイクの楽しさに目覚める

自動車普通免許を取得し、家にあった原付に乗ってみたら、春風を切って走る感覚に魅了される。「なんて楽しい乗り物なんだ!」と、そのまま中型免許を取得。バイト先のライブハウスにバイク乗りが多く「大型はもっと楽しいよ」と教えられ大型免許も取得。

今まで乗ったバイクは、duo・CB400SF・GSX-R750・マジェスティ・choinori・マジェスティ(フルカウルのスピーカーでドンドコなるやつ)など。

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*詳細は後日記事化予定

アルバイトで月に30万円稼ぐ

やったバイトは、ライブハウス・出演バンド募集の営業チラシをライブハウスに設置する・家庭教師・結婚式場など。家庭教師の時給が2,500円だったので、1日で2時間×4人×2,500円=20,000円になった。生徒が通う学校のテストを、過去3回分見せてもらえば、学校の先生の出題傾向が読めたので、次回テスト問題が予想できた。その予想が高確率で当たるので、成績が爆上がりする生徒が多数。

ライブハウスつながりでバンド結成(バンド2回目)

ボーカル担当。自分の音域のこととかまったく考えずに選曲したため、歌は酷かったと思う。

一人暮らしを始める

埼玉県所沢市に大学キャンパスがあり、私は千葉県柏市に住んでいたため、電車でもバイクでも片道2時間かかっていた。通学時間を短縮したくて一人暮らしを始める。親に資金余力はなかったため、一人暮らしの資金は自分で捻出した。生活費を稼ぐためにバイトに明け暮れ、結果学校には週2回しか行かなくなった。

臨床心理学サークルの幹事長になる

友人から「臨床心理学サークルに行きたいけど、ひとりだと心細いから一緒に行ってくれ」と頼まれ、ヒマだったので同行。私は飲み会担当。気づけば幹事長になっていた。サークル員の半分くらいはガッツリ心理系の仕事に就き、第一線で働いている。

1999年4月(20歳)ベンチャー企業でインターンシップを開始

このころから卒業後の進路を考えるようになった。臨床心理士などの選択肢もあったがピンとこず。なんとなく「カッコ良さそう!」との理由で「社長」を目指すことにした。モテたかっただけだと思う。当時「ヒゲを剃りたくない」との理由で、テレアポで新規営業するインターンを選択。1件も売れなかった。

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2000年5月(21歳)マンションデベロッパーから内定獲得し就職活動終了

「起業のためには営業力が必要だ!営業力を磨こう!」「一番高いものを売れれば何でも売れるようになる!一番高いものはマンションだ!」「大企業には新卒でしか入れないから大企業にしょう!」とマンションデベロッパーを志望し、あっさり合格。

今思えば、起業に必要なのは営業力ではないし、一番高いものはマンションでもないし、新卒でなくとも大企業には入れるなど、間違いだらけ・ツッコミどこら満載なのだが、当時の自分としてはしっかり理論立てているつもりだった。

2000年8月(21歳)1カ月間のトルコ旅行

中学・高校の同級生がトルコに留学していたので、遊びに行った。月の半分は1人でトルコ一周した。トルコ語はしゃべれないし、英語も苦手なのによくやったと思う。当時はなんの不安も不便も感じなかった。

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2001年2月(21歳)4級船舶(現2級)免許取得

ジェットスキーに乗りたくて免許取得。だがその後ジェットスキーには乗っていない。完全にペーパー船長。免許制度の改定があり勝手に2級にグレードアップされた。

ここまでウォリおの経歴・会社員時代編・1979年2月(0歳)〜2001年3月(23歳)は以上です。

続きは以下からご覧ください。

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ウォリおの自己紹介まとめ

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