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形而上学の目的

ドストエフスキー『白痴』

今週も小林秀雄全集、柳宗悦全集を読みつつ、池田晶子の『残酷人生論』などを読んでいます。『残酷人生論』はいいですね。『14歳の君へーどう考えどう生きるか』の大人向け版と帯にありましたが、まさに! めちゃめちゃよかったので、深く紹介したいですが、それはまた別の機会に取っておいて、今週はついにドストエフスキーの『白痴』を読みえたので、その感想をチラッとご紹介したいと思います。

ようやくドストエフスキーの『白痴』を読み終わった。ドストエフスキーの作品だから、読後の爽快感だとか、何だか賢くなった感だとか、自己肯定感が強くなったとか、そんなことは期待していなかったし、予想通り最後の最後まで、というか、最後こそよくわからなくなってくる。ドストエフスキーの作品はたしかに小説なのではあるが、なんとも不思議な読後感がある。この作品がフィクションであろうが、ノンフィクションであろうが、どちらでもいい、というか、そういう判断すら消え去ってしまう。ここに書かれているものを読むということは、あまりにもドストエフスキーに近づくこと、彼と対話することに他らならないのではないだろうか。

もちろん、本の中の彼、本である彼は語りかけてくることはない。でも、すべての答えはこの本の中にある。それをどこまで読み取れるか。それが、彼との対話の鍵となる。どこまで僕は彼と話が通じただろうか。どこまでお互いにわかりあうことができただろうか。

この本の主人公である、ムイシュキン公爵とは一体何者なのか。作者はこの人物を通して、何を描こうとしていたのだろうか。ドストエフスキーの批評はたくさんあるので、それを読めば、自分にしっくりくるものがひとつくらいはあるかもしれない。でも、作者本人との対話から生まれるこの感触は、やはりこの本を読むことでしかわからない。ロゴージンとは一体何者か。ムイシュキン公爵とは正反対の人物であり、影のような存在。でも、彼らはどうしてわかり合うことができたのか。何となくこのロゴージンの存在が僕にはより主人公に強い光を与えているように感じるのである。影があるからこそ、人はそれを人と、存在しているものと認めることができるのかもしれない。

特にこの本についての批評を書きたいとは思わないし、どう書いてもいいのかわからないので、それはしないが、でも、この読後感はどこかに言葉として残しておきたいと感じるのである。わからないものはわからないし、でも、この言葉にできない何かを感じることができることが、やはりドストエフスキーの凄さであると感じるのである。

次は『悪霊』を読む。その後に、もっと彼の作品を読むかどうかを決めたいと思う。全集すべて読みたいとも思うが、でも、この何とも言えない世界観をつかもうとしていいものかどうか。狂気と正気の行き来するような世界観。そして、狂気と正気は表裏の関係であり、そこにこそ真理がある。真理の側から見たら、狂気も正気もきっと一枚のコインのようにひとつに見えているのだろう。そのことを理解しようと思うことの越えられない壁、むしろ、越えてはいけないものではないだろうか、と思う自我を感じること。それだけで今は十分なのだろうか。それとも越えなければならないものなのだろうか。

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