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団結するのと競争で生き残るのでは求められるものが違う

出口治明さんの著書『全世界史』の中で、中国の王朝が入れ替わる際に起きた革命について述べている一節がある。

簡単にまとめると、古代中国の商という王朝は、紀元前一〇二三年、戦争によって周と呼ばれる王朝に滅ぼされた。
その大きな敗因は、神様に対する考え方が違ったことだという。

それまで商王朝では、神様を「帝」と称して、王朝の祖先たちと同一視して捉えていた。
ところが、周王朝では神様のことを帝ではなく「天」と呼び、祖先の枠にも収まらない、まさに人智を超えた存在だと認識していたのだ。

これによって、神様に対する認識に人間味が取り払われ、人間と神は全く別の存在だと扱うようになり、その流れで、祭り事と政治は分けて考えようとする「祭政分離」の方式をとっていた。つまり、現代でいう「政教分離」である。

商王朝にはこの思想がなかったので、祭りと政治を一緒くたにし、周との戦争の際も呪文や占いを戦に取り入れていた。ところが、周王朝には祭政分離の方式だったので、「呪文とか占いとかどうでもいいから、とにかく敵の情報と土地の情報を集めて勝て」と君主に言われ、現実に直視した戦い方をしていた。
結果、呪文や占いに頼っていた商王朝は倒れ、勝つために戦った周王朝が政権を獲った後の歴史が続いていくことになる。

ここに私は、「団結する時と競争する時では求められるものが違う」ということを学ばされた。

『サピエンス全史』でも述べられているように、人同士が大勢で団結するためには、神話やお伽話のようなフィクションが必要になる。それを互いに信じあうことで、共通認識が生まれ、仲良くなり、いざという時に大勢で行動できるからだ。

しかし、敵と戦争したり、裁判で勝ったり、ビジネスで優位に立つには、どこまでも事実と情報が求められる。
我々は誰を相手に戦うのか?
どんな組織か?
過去にどんな戦い方をしてきたのか?
想定される戦力はどのくらいか?
自分たちが優位に立つためにできることはないか?

そう言った事実と情報に基づいて、競争をし生き残る。
つまり、団結するのと競争で生き残るのでは、求められるものが全く違うのだ。

仮に二つの軍隊が戦を始めるとする。
一方は、「我々は何々という神様から神託を受けた子孫の末裔で、この戦いは神からのお告げを受けた聖なる戦いだから負けるはずがない」などと主張して戦に望む軍隊。

もう一方は、「敵の総数はいくつで、どんな武器を使っていて、どんな土地で行われていて、過去に彼らはどんな戦い方をしてきたのか?大将は誰で、誰を人質に取れば戦局を有利に運べるか?」などを可能な限り調べ尽くし、シミュレーションを何度も行った上で戦に望む軍隊。

果たしてどちらの方が勝率が高いか?言うまでもなく、後者の軍隊だ。

なぜなら、戦いに勝つために必要な事実や情報に基づいて行動しているから。
戦で勝ちたのであれば、呪文や占いは一旦排除して、今、この戦場で勝つために必要な動きとは何かを考えなければならない。そしてそれをより綿密に考えれたものが勝利、あるいは生き残ることができる。

したがって、事実と情報を基に戦に臨んだ軍隊の開戦後の動きは、神のお告げを信じる軍隊とはまるで違う。勝つために必要な隊列を組み、腕利な敵の兵士との戦闘は極力避け、穴のある箇所から重点的に狙い戦力を削いでいく。そういう現実を直視した集団が、戦争に限らず、裁判やビジネスなど、あらゆる競争で勝ったり、生き残るのだ。

フィクション自体は決して不要ではない。人が生き残っていくためには団結する必要があり、そのための能力として、フィクションを生み出し、信じる力が私たちにはある。それはこれからもきっと必要になっていくことだろう。

一方で、競争で優位に立つためにはフィクションで団結するだけでは足りない。敵の情報、自分たちの情報、戦う場の情報、勝つための条件の把握、…。
そう言った事実と情報をかき集め、戦う前から入念に準備してきた者が、最終的には生き残るのだ。

例えば、投資詐欺に遭ったり、裁判で論理的な主張ができずに敗訴するときは、往々にしてフィクションだけが頭にあって、事実と情報が抜け落ちたまま競争に臨んでるケースが多い。
そういう被害に自分が遭わないためには、団結で求められるものと競争で求められるものを切り離して、事実と情報を可能な限り集めて精査し、準備しなければならない。

それが身を守るため、生き残るために必要なことではないかと、とある歴史から学んだ今日この頃である。


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