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辞めます

マンションのエントランスで、羽毛田さんに呼び止められる。

「たこやまさん、すみません。
わたし、今月いっぱいで辞めることになりました」

羽毛田さんは、このマンションの管理人だ。
これまでの管理人とは違って、問題になるようなことは何一つなかったから、本人の個人的な事情なのだろう。
ちょっと残念な気はしたが、あまり詮索はしないことにして、素直に形式的なお礼を返す。

「そうですか、残念です。
短い間でしたが、お世話になりました。
ありがとうございます」

その数日後、やはりエントランスで、2階の八街さんに呼び止められる。
昨年奥さんに逃げられて、今は独り身だが、詳しいいきさつは知らない。

「たこやまさん、すみません。
僕、そろそろ辞めようと思ってるんです」

「えっ?
会社ですか?」

「会社の方は、先月もう辞めていますよ」

「じゃあ、引っ越されるとか…いや、引っ越すことを『辞める』なんて言ったりしませんよね」

「つまり…人間です。
人間を辞めようと…」

「そ、そんな…早まったことおっしゃらないでくださいよ」

「いえ、誤解しないでください。
死ぬ気なんかありませんから。
人間であることが、心底いやになっちゃったんですよ。
なんか、人間以外のものになるつもりです。
動物かもしれませんし、もしかしたら植物かもしれません」

そこまで言うと八街さんは、足早に去っていった。

その後、八街さんには会っていない。
元より親密な付き合いというわけでもないので、敢えてご機嫌伺いするつもりも無いのだが、気になっていないと言えば嘘になる。

八街さんのことが意識から遠退いた頃、飼い猫のしゃららに呼び止められた。
キジトラの雌の保護猫なのだが、自分の知っている猫たちの範囲内では、IQというか、猫偏差値はかなり高い。
そのしゃららが、突然しゃべり始めたのだ。

「あたし、猫を辞めようかと思うんですよ。
話せば長くなりますから、折を見て詳しい話をします。
今のところは、覚悟だけはしておいてくださいね」

実際に人間の言葉、つまり日本語で話しているように聞こえたのだが、本当はテレパシーのような形で話していたのかもしれない。
どちらにしても、僕にとっては大して違いは無い。
しゃららの伝えたいことは、今書いた通りということだ。

その後しゃららが人語を話すことは、無かった。
普通の猫に戻ったように思えた。

ところが、そうではなかった。
僕の部屋にいるのはどう見ても、しゃららではないのだ。
見た目は変わりがなくても、どこか別猫のような気がしてならない。

ある時気が付いた。
ああ、もしかして八街さん?

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