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戦うおばば

出入りの激しいマンションだ。
他の住人との付き合いは、あまり無い。
度会さんと親しくなったのも、一家が転出しようという直前だった。

愛猫のキジトラが逃げ出した。
部屋は7階なので、落下でもしない限りは、マンション内のどこかに潜んでいるに違いない。
建物の周辺を精査した後、一軒一軒回って手掛かりを求めたが、無駄だった。

眠れない一夜を過ごした翌日、吉報をもたらしてくれたのが、度会さんだったのだ。
度会さん一家は、6階に住んでいる。
僕の部屋のちょうど真下の部屋だ。

その日の夕方、呼鈴が鳴った。
度会さんの奥さんだった。

「いました、いました。
多分間違いないと思うんですけど、うちのメーターボックスの奥の方に…。
逃げたら大変なので、そのままにしてあります」

礼もそこそこに現場に飛んで行くと、紛れもなく愛猫のキジトラだった。
それが縁となって、度会さんと親しくなったのだが、親しいと言っても、顔を合わせれば言葉を交わすというくらいで、親密に部屋を行き来するというようなことは無かった。

度会さんは4人家族だ。
旦那さんは居酒屋のオーナー兼料理人で、奥さんとふたりで店を切り盛りしている。
無口で不愛想だが、料理の腕には定評がある。
やくざ映画の寡黙な親分みたいな、どすの利いた風貌が、ちょっと近づき難い空気を醸し出している。

奥さんは小柄で、おっとり控えめな人だが、お店ではきっと、もっとしゃきしゃきしているのだろう。
あとの二人は、中学生の一人息子と旦那さんのお母さんだ。

お母さんは息子に似ている。
そっくりだと言ってもよい。
だから、迫力がある。
息子以上に怖い。

頭にバンダナを撒いて、いつも外を歩き回っていたので、遭遇する機会が一家の中では一番多かった。
こちらから挨拶すると、すぐに返してくれたが、息子同様、少し不愛想な感じだった。
嫁が店に出ているので、家事の方は多分、このお母さんが主となって、担っていたのだろう。

愛猫の脱走事件から半年もしないうちに、一家は引っ越して行ってしまった。
具体的な場所は訊かなかったのだが、居酒屋からそんなに遠くない地元のマンションらしかった。

ある昼下がり、最寄り駅に近いスーパーMで買い物をし、レジに並んでいた。

「何言ってんだい。
舐めるんじゃないよ。
うちを誰だと思ってるんだい…」

と突然の怒声。
少しだみ声の混じった、迫力のある女性の声だった。

列の前の方を見ると、男女ふたりが言い争っている。
店員の女性が宥めようとするが、なかなか収まりそうにない。
こちらには背を向けているので、よくわからないのだが、どうやら老人男女の喧嘩のようだ。
レジでもたついているお婆さんに苛ついて、後ろのお爺さんが何か難癖をつけたのに、お婆さんの怒りが爆発したらしい。

野次馬根性で、ちょっと面白がって見ていると、不意にお婆さんの顔がこちらに向いた。
見たことのある顔だ。
見たことがあるなどと考えるまでもない。
頭にバンダナを撒いたその顔は、紛れもなく度会さんちのおばばだった。

いたたまれないのと、なんだか怖いのとが入り混じった、落ち着かない気分で、僕は買い物を諦め、そそくさとその場を去った。

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