気になるあの子は気になるこの子
同じマンションの下の階に、ちょっと風変わりな女性が引っ越してきた。
いつもゴスロリ風のファッション。
年齢不詳。
目立つことは目立つのだが、とんがった感じではない。
動作はゆっくりしていて、なんだかふわふわしている。
風船みたいなのだ。
賃貸ではなく、オーナーらしい。
表札には、勅使河原真実衣(てしがわらまみい)とあった。
勅使河原真実衣さんと初めて言葉を交わしたのは、彼女が引っ越してきてから一カ月以上経った頃だった。
たまたまエレベーターで乗り合わせた時に、唐突に尋ねられたのだ。
「この辺りに熱帯魚ショップはありませんか?
水槽が欲しいんですけど…」
「熱帯魚、飼ってらっしゃるんですか?」
「熱帯魚ではなくて…ゾウリムシなんです」
長年ゾウリムシを飼っているのだが、「お気に」のふたり、「しゅんぺいちゃん」と「アレクサンドル5世」が最近、ケンカばかりするので、水槽を別々にしたいとのことだった。
該当する店をいくつか知っていたので、一応答えておいたのだが、検索すればすぐわかることではないか。
彼女としては多分、話のネタにしただけなのだろう。
何はさておき、この会話がきっかけで、彼女と交流するようになったのだった。
彼女は羊毛フェルト作家を自称しているが、作品のテーマが少々変わっている。
石なのだ。
一見すると、かなりリアルな大小の岩石なのだが、触れてみてびっくりするというわけだ。
商売になっているのかどうかは、わからない。
蕎麦が好物だというので、一緒に蕎麦屋に行ったことがある。
中でも好きなのは、越前おろしそば。
山盛りの大根おろしに、削り節ときざみネギをたっぷり載せた、冷たい蕎麦だ。
大根おろしには辛味大根を使用し、一般的な大根おろしよりもピリッとしているのだが、
「わたし、ワサビストなんです」
と言って、勅使河原真実衣さんはバッグから、「マイわさび」を取り出す。
田丸屋の「本わさび瑞葵」、チューブ入りの練わさびだ。
これでもかというくらい、もりもりとわさびを絞り出すと、軽くかき回して、ずるずると啜り上げた。
彼女と居酒屋に行った時には、とっておきの特技を見せてくれた。
「わたし、鼻の孔に手が入っちゃうんです」
「えっ…まさか…。
手じゃなくて、指でしょう?」
「そんなの普通じゃないですか」
「でも、一度に3本とか入れば、すごいと思いますよ」
「手です。
本当に指ではなく手です。
見たい?」
「ええ…まあ…」
何か仕掛けでもあるのだろうと思って、一応言ってみた。
すると彼女は本当に鼻の孔に、自分の握り拳を突っ込んでしまったのだ。
しかも、左右両方に。
呆気に取られて見ていると、すぐに抜き出して、冷静に解説した。
「小鼻がすごく柔らかいんです。
っていうか、ものすごく伸びちゃうんです。
小さい頃、鼻糞をほじっているうちにそれに気が付いて、とても嬉しかったのを覚えてます」
最初は変わっているという気もしたのだが、そのうちそんな気がしなくなった。
というより、変わっているのかそうでないのかわからなくなった。
ただ、慣れたというだけかもしれない。
いずれにしても、僕と彼女の間では、精神的な距離ばかりではなく、物理的な距離もどんどん短くなって行った。
いつの間にか彼女は、僕の部屋に住んでいた。
ゴスロリのコレクションも、大量の羊毛フェルトの石も、ゾウリムシの水槽も、いつの間にか僕の部屋に移動していた。
下の部屋は、いずれ売り払うつもりらしい。
僕だったら、売らずに賃貸に出すんだけれども、部屋の所有者はあくまで彼女だから、どうしようが彼女の自由だ。
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