2022年1月9日 終わらない日常を時間と共に生きる
時間ばかりが経過しているような気がする。
Amazonですぐに欲しいものは手に入るし、コーヒーマシンがあるから喫茶店に行く必要もあまりないし、仕事はリモートワークをすれば快適になる。
だらだらしてもいいし、料理をしてもいいし、本を読んでもいい。
家の中でできることがとても増えている。
もともと寒いのは苦手なので外に出たくもない。煙草を吸いたくても外で吸えるお店はない。やっぱり家の価値がとても高い。
食材の買い物は、やはり外に出て買った方がいいと思っているけれど、配達や選ぶコストが減った世界になったら、また家から出なくなるかもしれない。
そう考えると、外に出る機会は本当に少ない。強い動機(旅行とか、その手の体験を伴うもの)がない限り外には出る理由はないと思う。
最近少し気持ちが沈んでいる。それは家に篭りすぎているせいなのではないかと思って外出してみた。けれど、家にある以上の楽しいものが今日は思いつかなかった。
よくよく考えると、外に出るときは基本的にイヤホンをしていて、ラジオを聴いている。家の中にいても、ラジオを聴いている。
外に体は出ているけれど、自分が見ている世界はいつもと同じかもしれない。イヤホンをしていると周りの世界は視覚的な背景以外の何者でもない。注文をしたら、自動で料理が運ばれてくる。便利すぎる世界だから、自分の選択次第で、刺激をどこまでも減らせてしまう。
時間ばかりが経過して、経験の大部分はネットから大量に入手できる。自分は何も動いてないけれど、経験だけが動いている。
やりたいことはあるけれど、自分の体調となかなか噛み合わない。仕事だけが毎日繰り返されているから依存度が高いのだと思う。
正月休みと正月明けの違いが今年はわからなかった。
1日も1年も短いけれど、やりたいことと体調と運の組み合わせがヒットする確度がどんどん下がって、結局何も生み出していない気がする。(時間は経過しているので、そういう意味の副産物だけはたくさんある)
去年はなんの年だったとテーマをつけられない日々を繰り返して、何か大きそうで小さい波の激流に抗えない。
そんなことまで考えて、まずは毎日の鍛錬を欠かさないことかなと、結局帰ってくる。
日記を書いて本を読んでコーヒーを飲んで、絵を書いたり文章を書いたりしながら、まずはそこから少し出てみれるように整えていくことが必要なんだと思う。
心が迷っているから、動きにくくなって、抜け出せないのかもしれない。
誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。