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「公理」という概念を日常の中に取り入れてみる

数学をやっている人ならばよく知っているだろうが、数学には「公理」というものがある。

公理とは、最初から与えられている最も基本的な仮定のことである。

数学における公理は、
・平行でない二つの異なる直線はただ一点で交わる
・a=b なら、a+c = b+cである
・2つの点が与えられたとき、その2点を通るような直線を引くことができる
などが有名である。

さて、なんとなく難しそうな気もするが、公理の特徴として以下の2点が重要だと僕は考える。

①その他の命題の前提となること
②証明する必要が無いこと


例えば、「a=b なら、a+c = b+cである」という公理が無ければ、あらゆる四則演算を用いた出来なくなる。また、これを証明しなければ前提として成り立たないとするのであれば、これまたこの世のあらゆる命題をもう一度証明し直さなければならなくなる。

いわば、公理とは数学の骨格であり、これらの真偽を疑うと数学そのものが考えられなくなる。


さて、では、タイトルで書いた「公理を日常の中に取り入れてみる」とはどういうことか。
それは、「日常会話や議論の中で『今、何が公理にあたるのか』を常に意識する」ということである。


例えば、「高齢者による自動車事故で死に至るケースが増えている。政府は高齢者への免許返納の呼びかけの声をもっと強めるべきか?」というテーマで議論をした時に、「そもそも、なぜ人を殺してはいけないのですか?」という疑問をその場で発する人がいれば、その議論の場は凍りつくだろう。
その場においては「事故であろうと人を殺してはいけない」という前提で話しており、このテーマにおける公理のひとつとなる。哲学の話をしていて「人を殺すことの是非」を問うのは興味深い議論ではあるが、このテーマにおいては「人を殺すことの是非」を問うことに意味はないし、その場において「人を殺すことの是非」に答えを出す必要もない。むしろ議論そのものを破綻させる。

しかしながら、日々の生活の中で、知ってか知らずか、この「公理」をぶち破ろうとする輩が一定数いる。というよりも、体感としてはかなり多い。

先日も契約関係の話を社内でしている時に、法律の話になったのだが、その会話の中で「変な法律だな?そんな法律守る必要あんの?なんで、そんな法律になってんのか、誰か説明してよ」と言ってきたやつがいる。
当然、その場は「契約は法律遵守すべき」という公理のもとで話がされていたのだが、その問いは、まさに、水を差し、水を打ったようにその場を静まり返らせた。
彼は、静まり返った場を見て「俺は本質をついた問いをこの場に投げかけた!」とでも言いたそうな得意げな表情を浮かべていたが、なんてことない、その場にいた全員が呆れて何も言えない状態になっただけの話である。
この「公理を突く」いうのは、その場の話し合いを止めてしまうが、頭の弱い人にとってはそれが「相手が何も言えなくなった」と勘違いして見えるようである。逆に言えば、それを受けた人は、その場の「公理」を常に意識していれば「今は別に法律の良し悪しを話し合う場では無いです」と一言言って終わりである(実際には、静まり返ったあと全員が彼を無視して話し合いを続けたのだが)。


とまぁ、最後は個人的な愚痴になってしまったのだが、誰かと何か会話をする時に、常にその場における公理、すなわち「何を証明不要の前提としているか」を意識するのは、円滑なコミュニケーションもしくは建設的な会議・議論を交わす上では、非常に重要なことだと思う。
くれぐれもワザと「公理を突く」なんてマネはしない方が良い。その一瞬の優越感に浸ることは可能かもしれないが、あなた自身の評判を間違いなく落とすことになる。

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