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「小さな否定」と「大きな否定」

○はじめに

みなさんこんにちは😆✨

SNSなどで最近難しいなと感じていることがあります。それが好きな作品をシェアすることです!

なぜそれが難しいのか。それはシェアしても否定=受け取られない可能性が含まれているからです。

「何かおすすめある?」と質問しておいて、答えたら「これはちょっと…」と返事が来たら「なんで質問したんだ!?」とカッとなってもおかしくないと思います。

それを考慮した上で、おすすめを共有する際に必要だと思う話し方・聞き方について考えたことをまとめようと思います。


○否定

否定することはSNSを見ると良い印象は抱かれないものですが、自分の価値観を振り返ったり、新たな価値観を知る上では必須のものです。そして単純に好き嫌いがあります。哲学者ヘーゲルの弁証法というある物事に対する否定と対比して次にステップアップする思考法があります。

成長する・新しいことを知る上では通らないといけない関門であると言えるでしょう。


○「小さな否定」と「大きな否定」

しかし、その否定もいいものと悪いものがあります。もちろん相手の人格を否定する誹謗中傷は論外です。ではそれ以外の否定をあくまで「好きなものをシェアする」という状況で考えると、二つに分けられると考えています。それが「小さな否定」と「大きな否定」です。

大小とついていますが、程度の大きさを意味しているわけではありません。ここでの大小はレイヤーを表しています。

「小さな否定」は作品個々に対して賛否両論述べるという否定。「大きな否定」は分野・ジャンル・カテゴリごと否定するという否定です。例を挙げると、前者は夏目漱石の『吾輩は猫である』、ゲームの『ファイナルファンタジー7』など、後者は本、ゲームやミステリー、ホラー、ソシャゲ、音ゲーなどです。

「小さな否定」はあくまでホラー作品の中でこの作品は苦手だけどこの作品は好きのような話なので、「そういうテイストならこんな作品があるよ」と他に挙げることもできます。

しかし、「大きな否定」になるとその分野やジャンルすべてが否定されてしまうため、話を続ける余地がありませんし、主語が大きく語気が強い印象も受けます。

「大きな否定」の代表例はSNSで「ゲハ戦争」と呼ばれる「ゲームハード戦争」が挙がります。playstation系・任天堂系・Xbox系のどれか好きなハードを崇敬し、「これが一番楽しめるゲーム機だ」と言って争うゲーム界隈でたまに見かける論争のことです。これはまさしくそのゲームハード自体を否定してしまい、そのゲーム機が好きな人からはシェアすることができなくなります。


○対応策

では、これを踏まえてシェアするときにどうすればいいのか。

①「大きな否定」をしない
②自分のそれぞれの分野の基準を設ける
③否定に便乗しない

の3点です。

①は説明した通り大きな主語で否定された場合、それ以上話す余地がありません。初心者でも楽しめそうなもの、少し変わったもの関係なく全否定だからです。

そして②も重要で、「大きな否定をしてほしくない」というからには自分も線引きが必要になります。例えば苦手な人が多そうな「ホラー」というジャンルでも、自分の場合アニメ調の過激なグロテスク描写は苦手だけど、昔の洋画の作りもの感があるようなホラーはむしろ大好きで全然観ています。

そのように会話の余地、次に繋げるためのステップを自分の中で基準を持っておくのがいいと思います。

③はいじめの空気作りに近いところで、直接意見はしないけれど、否定意見に便乗する人が出てくると、それ以上何も言えない空気に拍車がかかります。無意識に加担していないでしょうか?


○おわりに

ここまでちょっと考えたことをまとめました。自分は新たなことを知りたいと思い雑談会を開いて相手のおすすめを聞いたりすることも多いですが、「たまに大きな否定をしてしまっているのではないか」と書きながら反省していました😖

分野を知るのをやめることで失うものもあると思います。自分はこれからもそれぞれの分野でも楽しめる作品を探していきたいなと考えています👍✨

最後までお読みいただきありがとうございました🙏

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