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才能②


あの子の名前をぼくは覚えられない。

誰かに彼女の名前を聞かれたときに彼女の名前を想い出そうとすると、毎回のように「あれ、なんていうんだっけ。」となってしまう。

なぜ、そういう現象が起きてしまうのか。

ぼくは彼女に声を掛けるとき、彼女の名前を呼ばない。

では、ぼくがいつも彼女を呼ぶときはどうしているか、というと、それはその日によって違うのだ。

彼女には、その日ごとのあだ名がある。

それはときに「ぴこぴこ丸」であったり、ときに「出家侍」であったりする。

それを聞いた彼女は毎回、「?」となるのだが、それというのはぼくにとっての90点の回答である。100点は与えられない。100点を与えると彼女が調子に乗るから、少し厳しめの90点に抑えておく。彼女とぼくにとってその10点の満たされなさ、がちょうどよい距離感なのだ。

彼女がぼくにとって90点なのではない。彼女との距離感に10点の錯覚があるのだ。

でも、そんな彼女はたまに、斜め下を見ているような、斜め下を見ざる負えないような表情をするときがある。彼女の斜め下に彼女にとって目を背けたい事実が顔をのぞかせているのだけれど、やはりそれから目をそらしてはいけない、という感じの顔。

彼女のそういう表情を見たとき、というのは、こちらとしても気まずくなる。それは彼女がそうであるのと同様、こちらにとっても受け入れがたい現実なのであるから。

ぼくの経験上、そういうときの物事の捉え方というのは、二通り存在する。一つは世の中の男がそうするべきであるように、余裕をかまして大らかにとらえるということ。これを成すには数多くの経験を有し、彼女を優しいまなざしでひたすら見守る必要がある。

二つ目は、倒れている人に対して毒の盛んな槍でめった刺しにするように的確な論理攻撃をすること。これは的確であればあるほど、彼女を再起不能にすることができる。これを行うことによって得られる効果というのは、自分の一時的なストレス発散のみである。

例えばぼくが、二つ目の論理攻めを電話をかけてきてくれた彼女に対して抑えきれずに行ってしまうとする。そうすると彼女は明確に落ち込み始め、必ずと言っていいほど電話口で泣き出す。彼女にとってそれはそれは大きな災難である。だって、少なからずぼくと電話をしたいと想って、向こうから電話を掛けてくれたのに、なぜか恩をあだで返されるかのような返り討ちに合うのだから。

彼女が泣き出すのを聞いて、ぼくは目が覚めるというか、彼女を守らなければならないはずが彼女を攻撃していたことに突如気付かされる。

自分の醜さというのは必ず自分自身の中に存在していて、それを押さえつけようとするとそれがむやみやたらに騒ぎ出すのだ。その騒ぎを止めることができなかったぼくが、彼女に迷惑をかける。でも、騒ぎ出すのはぼくが未熟だからに他ならない。

ぼくの怒りの理解に苦しむ彼女を見たとき、ぼくは自分の愚かさを悟る。その過ちは、嗜好品に対して一度手を出すことをきっぱりと辞めたのにもかかわらず、もう一度手を出してしまうような感覚に近い。

ぼくのその罪の大きさと彼女の純真さは、常に背反する。

これが才能の差でありながら、彼女の不幸せへの到達でもあり、ぼく自身の愚かさの露出であるのだが、それでもぼくに名誉挽回の機会を与えてくれる彼女のことを独り考えては、激しく枝分かれする思考回路にてより適した最善策を試行錯誤中となりつつ、どうすればよいか、と修行中なのである。