見出し画像

【日記エッセイ】「タイムスリップをした日」

居場所ボランティア先での話である。僕は大学1年生の頃から何故か居場所ボランティアに参加していた。それについては以下から読めます。

僕は小学生たちと一緒にご飯を食べる。少し小さめの椅子に座る、机に肘を乗せて顎に手を添える、隣には小学4年生の男の子が座っていて、周りを見れば小学生たちがご飯前に喋っている、主食と副菜とデザートとお茶が運ばれて机に置かれる。ここの居場所運営を仕切っている60代の高田さんが前に出て何か話している。小学生の頃の教室での給食、前に立つ先生、同級生たちの声の騒めき、頭がボーッとしている、フーッと息を吐く、自分の中の小学4年くらいの記憶と感触が蘇ってくる。蘇って、ペタッと今の僕と重なり合って、僕は小学4年生くらいの僕になった。

少しして、誰かに話しかけれ、僕は現実の僕になった。僕はこの出来事をタイムスリップだと思った。タイムスリップできた!と喜んだ。

再びタイムスリップしようとしてもできなかった、環境の条件と僕の状態が一致する必要があったのかもしれない。タイムスリップと言っているが、単に記憶を鮮明に思い出しただけなのかもしれない。けど、その記憶は身体的なものだったように思える。身体が覚えているみたいな。それと小学生の頃と似たような環境で思い出された事が重なり合ってタイムスリップ出来たんじゃないかと思っている。意識をそのままにして過去に戻れたら何をする?みたな会話があるが、それが実際に出来た感触だった。

そう思うと僕たちはほとんどのことを忘れてないのかもと思った。単に記憶を引っ張り出すことが出来てないだけなのかもしれない。忘れてるんじゃなくて、出し方を知らないだけ、秋風に吹かれた時、ある日の似たような心地良い秋風に吹かれた日を丸ごと思い出すような、僕たちは忘れてなく、それらはそこにあるのかもしれない、立ち寄ってみる、あの時のままではない、時間と共に劣化はしている、その部分を修繕する、その時に必要な材料は言語である、欠けた部分を言語の補修パテで補完する、剥がれた塗装に言語の塗料を塗る、取れた箇所は言語のネジで固定する、それは作り直すこと、それは元の様相を残したまま形を変形させて行くこと、何も手を付けないで、打ちっぱなしコンクリートみたいな、廃れた商店街みたいなまま置いといてもいい、でもなぜ作り直すのか、自らの記憶をなぜ作り直すのだろうか、僕らにとって記憶とは帰る場所なのだろうか、動物が自らの巣を手入れするように、僕たちは記憶を手入れする、記憶が巣だとしたら、人間の帰る場所は記憶である。今日もまたある記憶が欠け、ある記憶を運び、ちょこちょこと記憶の修繕を行う、その流れ、そんな日々、記憶を咥えた僕たちが地面を歩いている、どこまでも行くわけではなく、どこかに留まるわけでもない、巣と外の往復を繰り返す、そんな僕たち、奇妙な動物。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?