見出し画像

彼岸花の思い出

よく散歩する河川敷の土手が、きれいに除草されていました。
夏の間に伸びた草を一気にザーッと刈った模様です。
さっぱりと刈られた土手に赤いものがあり、なんだろうと近づいてみると彼岸花でした。
ここだけ刈られていないということは、彼岸花に配慮したのでしょうか。
なかなか粋なことを、と思わずにんまりし、そういえば去年もそう思ったことを思い出しました。

彼岸花は、好き嫌いが分かれる花のようです。
わたしは打ち上げ花火のような華やかさと儚さ、それにゾクッとするような妖しさを感じて好きですが、いつだか母に話したら「縁起でもない」と言われてしまいました。
母には、お墓に咲く花というイメージがあるようです。
わたしが持つ彼岸花のイメージは、地方の駅の線路脇に咲く花。
それも、母方の祖父母が住んでいた町の駅が浮かんできます。

そこは九州の、その地方では特急の停まる、わりあい大きな駅でした。
しかし当時、東京に住んでいた小学生のわたしには鄙びた駅にしか見えませんでした。
その駅には貨物専用のホームがあり、貨物列車が停まっていた記憶があります。
そこに、彼岸花がポツンと咲いていたような。
鄙びたホームと、貨物列車と、赤茶色の線路と、彼岸花。
その風景は、郷愁というか哀愁というか、言葉にできないものが漂っていました。

※※

わたしの両親はふたりとも九州出身ですが、父の仕事の都合で、わたしはほぼ関東で育ちました。
父は転勤が多く数年おきに引っ越しを繰り返していたので、母はときどき「またお金がかかる…」とぼやいていました。
そんなこともあり、帰省できるのは数年に一度。
祖父母にしてみたら、娘に会うのも孫に会うのも数年に一度、ということになります。

祖父母の家で楽しい数日間を過ごした後、東京へ戻るわたしたちを駅のホームで見送る祖母は
「次、あんたたちが来るのは、おばあちゃんかおじいちゃんの葬式かもしれない。もう会えないかもしれない」
と、ほろっと涙をこぼし始めます。
しかし、どう見ても元気な祖父母が死ぬとは到底思えず、わたしと弟は笑いながら
「また来るから、おばあちゃんもおじいちゃんも長生きしてね」
と声をかけます。
祖母の涙は、電車が到着し、わたしたちが空いている席に座って窓越しに向き合うときに最高潮となり、大号泣で今生の別れのように手を振ります。
小学生のわたしと幼稚園生の弟は、そんな祖母がおかしくて笑いながら手を振り返します。
電車が走り出し、祖母の姿が見えなくなってもケラケラ笑うわたしと弟を、両親は強く叱りませんでした。
ただ、父から
「お父さんが子供の頃は、よく人が亡くなった。医療が今ほど進歩していなかったし、田舎だったから、子供もよく亡くなったものだ。
おばあちゃんは、お前たちにいつまでも元気でいて欲しいと思ったんだろう」
と静かに言われて、叱られるよりもグサッと胸に刺さりました。
祖母には幼い子(わたしの母の妹)を病気で亡くした過去がありました。
また、女学生時代に母親を病気で亡くし、その後、戦争もありました。
そのことに小学生のわたしも、ようやく気が付いたのでした。

その出来事と駅の線路脇に咲く彼岸花は、わたしの中でずっとセットになっていました。
しかし、ある時、それは違う、と気付きました。
わたしが子供の頃に帰省していたのは、いつもお盆の時期。
彼岸花は、まだ咲いていない。
では記憶のなかの風景は何だったのだろうと考えて、ふと、社会人になって3、4年が過ぎた頃、お彼岸の時期に用事があってひとりで帰省したことを思い出しました。
次にあんたたちが帰ってくるのは葬式かもしれない、と泣いていた祖母でしたが、実はしっかりと長生きして、この頃も祖父とふたりで暮らしていました。
とはいえ、もう高齢だし祖父母の家に帰るのはこれで最後かもしれない。
そんなことを思いながら駅で見かけた彼岸花が、さまざまな記憶と結び付いたように思います。

※※※

結局、祖父母は、ふたり揃って90歳を越すまで長生きしました。
でもわたしがその駅で彼岸花を見たのは、社会人になって帰省したときの一回だけです。
その数年後、もっと大きな街に住む叔父が家を新築して祖父母を呼び寄せたので、その駅を利用することはなくなったのでした。

わたしが結婚し、子供が産まれると、ひ孫に会いたい、2人目も会いたい、もっと大きくなった姿も見たい、と言われて、そのたびに子供たちを連れて帰省しました。
祖母は別れ際になると相変わらず
「次に会うときは葬式かもしれない」
と泣き、最初は一緒に涙をこぼしていたわたしの子供たちも、ある時期から
「そう言っているうちは大丈夫だよ」
と言い出して、みんなで大笑いしたこともありました。
90歳を越してしばらく経った頃、祖母に末期癌が見付かりました。
元気な姿で会えるのはいよいよ最後かもしれないと母から連絡があり、わたしは子供たちを連れて、いつもと違う気持ちで祖父母に会いにいきました。
次女も小学生になり、ひ孫がこんなに大きくなるまで長生きできるなんてすごいね、などとみんなで話していたとき。
突然、祖母が
「○○ちゃん(幼いうちに亡くなった母の妹)に可哀想なことをした。申し訳なかった」
と泣き出しました。
おそらく、元気で長生きしている自分(末期癌のことは祖父母に知らせず、積極的な治療も止めよう、と母と叔父は決めていました)や、すくすく育つひ孫を見て、幼くして亡くなった我が子の姿が浮かんできたのでしょう。
○○ちゃんがずっとそばで見守っているから、おばあちゃんもおじいちゃんも長生きしているんだよ、とまわりが声をかけても、祖母はなかなか泣き止みませんでした。

しばらくして祖母のいない場所で母と叔父が
「ずいぶん昔のことだけど、ずっと悔やんでいるんだね」
と話しているのが聞こえました。
その子が亡くなった病気は、今の時代なら治療してすぐに良くなるものだったそうです。
祖母はその半年後に亡くなり、祖父も祖母を追いかけるように、まもなく亡くなりました。

※※※※

彼岸花は、不思議な花です。
いつも歩いている道端に、ある日突然、赤いものが現れる。
あれ、と目を留めると彼岸花が咲いています。
桜のように気を持たせることをせず、金木犀のようにさりげなく季節を告げるでもなく、ある日突然、姿を現し、人の目を奪う。
そういえば以前もここに咲いていたっけ、と咲いてはじめてその存在を思い出させる花です。
そして咲き終わると、すぐに存在感を消してしまう。ずっとそこに根を張っているのに。
それはまるで、祖母の心の中の、亡くなった幼い子に似ているようにも感じます。
そういえば、かつての祖父母の家は、どことなく亡くなった者の気配がありました。
帰省するのがお盆の時期だったので、お坊さんが訪れたり、お墓参りに行ったせいかもしれません。
その感覚も、駅でたった一度だけ見た彼岸花と結びついたのかもしれません。

祖父母という存在は、わたしと、亡くなった者をつなぐ橋のように思います。
母の妹が亡くなったのは、母が麻疹に罹り、祖母が看病に気を取られてその子の異変に気付くのが遅くなったからだ、と聞いたことがあります。
今なら両方の命が助かることでも、当時は難しく、どちらかの命しか救うことができなかったのかもしれません。
生きている者の傍らには、かならず亡くなった者の存在があります。
それは普段、意識していないことだけど、忘れてはいけないことのように思います。

彼岸花を見ると、祖父母の住んでいた町の駅が浮かび、そこから様々なことを思い出します。
そして彼岸花が枯れると、すっかりそんなことを忘れてしまいます。
それでいい。
だけど年に一度、自分と、自分につながる者たちを思い出してほしい、そんなメッセージのようにも感じます。

河原の土手に咲く彼岸花も数日経つと枯れてしまいました。
おそらくわたしがその存在を思い出すのは、来年の秋になるでしょう。
その頃にまた、祖父母や、自分につながる様々な人を思い出し、偲びたいと思います。

この記事が参加している募集

おじいちゃんおばあちゃんへ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?