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あれからの10年、このさきの10年

「あの日」から10年が過ぎ去ろうとしている。2011年からの10年間、いずれ「2010年代」と括られ、まとめられることになる時代である。これまでも、私たちはそうやって、自分らが生きてきた時間のまとまりをより広範な時間的文脈のなかに位置づけたり意味づけたりしながら、自分たち自身にまつわる歴史=物語をつむいできた。そこから次の局面に移行しつつある現在、自分たちがこれまでどこにいたのかが改めて見えてきつつあるということだ。

では、それはどんな時代であったか。東日本大震災(2011年)に始まり新型コロナウィルス禍(2020年)に終わった10年間、すなわち巨大な二つの災禍にはさまれた「災間の時代」というのが、まずはそのフレームとなることに異論はあるまい。だが、「災間にあること」は、首都直下型地震や南海トラフ地震、富士山噴火などを今後に控える現在、2020年代以降にも共通する特徴となろう。とすれば、それとは別の何かで特徴づけることがより適切かもしれない。

ここで少し、別のところに目をやってみよう。それ以外の「○○年代」はどうだったか。例えば、「1960年代」は右肩上がりの「高度経済成長」の時代、続く「1970年代」は「1960年代」の負の遺産をつきつけられ、それへの反省と対処が求められた時代だ。「1980年代」は、第三次産業への基軸移行を背景とした「高度消費社会」の時代で、バブルの狂騒のイメージが強いが、その一方で、戦後社会の構造転換が始まっていく時代でもある。

筆者は1973年生まれの団塊ジュニアなので、このあたりまでは完全に歴史である。高校・大学に進学し、半径5mの外をきょろきょろし始めたのは「1990年代」からで、この時代は東西冷戦(1945~89年)の終わり、55年体制(1955~93年)の終わり、戦後50年(1945~95年)の終わりと、戦後日本の「当たり前」――いまなら「昭和」と呼ばれる諸々――が立て続けに終わっていくことに特徴があったといえる。

とすれば、続く「2000年代」以降は、終わった何かに代わる新たな何かが始まっていく時代であるはずだった。だが、「アメリカ」に象徴される強大なものに下駄を預けるありようは2001年の同時多発テロ、2011年の福島第一原発事故で強烈にNOをつきつけられた。このNOの三度目が、今般のコロナ禍といいうるかもしれない。要するに、私たちは未だ、終わったものに代置すべき何かをつくれていない。次の10年は、それを始めることができるだろうか。

『よりみち通信』19号(2021年3月)所収

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