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読む焚火。

「旅をする木」星野道夫さん

こんにちは。
仙台たき火ティーの大石です。

「仙台たき火ティーの」とか言ってますが(笑)、
勝手に自分がFacebookページやっているだけですので、「そう言われましても…」感があり過ぎかと思いつつ、こんにちは。

普段は、目下「根城化」している仙台・秋保でのたき火の様子や、そこで思ったこととか、焚火に来てくれた方々の言葉なんかを主にSNSでシェアさせてもらってます。

僕なりの想いや意図もあってな訳ですが、まあ、それはおいておいて、今日は実験的に「読む焚火」をシェアしてみたくなり、突発的にnoteを始めてみましたよ。

「読む焚火」というのも勝手に言ってますが、
今のぼくにはそうとしか言えないので、そう言っておきます。一義的には本の内容がですが、
一連の何かがとっても「焚火的」だからです。

noteについては、アカウントは4年も前に取ってあったのですが、自宅の本棚で読まれるのを(永遠に…)待つ本達と同様に、そっと気持ちの奥底でペラリと捲られるのを待って頂いてた次第で。

今こそ、どうやら扉の開け時到来らしく、恭しく、パスワード保管庫からアカウントを引っ張り出してきております。

と、ここで、横道にそれる訳ですが、僕は、この焚火活動(?)を始める少し前あたりから、結構意図的に「直感」の赴くまま行動しようとしている、と思います。たき火ティーもそう。そもそも、焚火を始めるに至ったきっかけを作ってくれた友人達に「こんな事考えてんだよね」と、声をかけたのもそうだし、もう少し遡ると、その少し前に、ちょっと仕事と距離を取りたくなり、半月ほど休みをとったことなんかもそうだったりします。

何が言いたいかというと、例えばnoteを始めることも、たき火ティーを始めることもそうなのですが、直感と、僕の敬愛する師匠たち(※)の言うところの「サイン」、としてあらわれてくる物事や思念みたいなもの、をベースにして自分が動いているこの頃、ますます、必要なもの、や、必要なこと、が自分の目の前に現れてくるなあ、ということが起きている、と。まあ、そんなことを言いたい訳です。てか思ってます。というよりも、要/不要の判断がシャープになっている、という感じでもありますでしょうか。

(※)「サイン」という概念は、ホワイト企業大賞でも有名な「株式会社森へ」さんの「森のリトリート」を通して森に入ったり、や、「森のように生きる」や「森のような経営」などの著者としても知られ、尊敬する山田博さんに教えてもらったものでございます。ちなみに「森のように生きる」には、大石、チラっと写真で写ってますぜ。探してみてくださいませ!

言うまでもなく、それは、日常的に、自分自身がトプっと体を浸している資本主義の極北的(!)、コンクリート的な、いわば「ロジカル毎日」とでも言えそうな「説明的世界」からすると
にわかに承服しかねるような、不合理、非論理、無(or不or非)意味、不経済、何より「非力」な、なんなら「何?アンタ、スピ系?」と訝しがられるみたいなあり様ではありますでしょう、という事は(おそらく誰よりもロジカルに)理解します。

何を言おうとしてたんだっけ?
そうそう、とにもかくにも、自分は直感的に生きることで、ずいぶんと自分にとって納得のいく日々を送ることが出来ている、とそんな風な事を言っていると思います、多分。
僕にとっては火を焚き続けることが、そういった生き方のメタファー、あるいは「狼煙」として
機能しているのかもしれないなあ、と思ったりもします。自分にあげる狼煙、という意味で。

で、今日、こうしてnoteを書きたくなった、ということは、つまりはそういう事なんだろう、
と思っています。機は熟せり。こんにちは、note!

閑話休題。

たき火ティー投稿、それにもまして、普段のSNS投稿が焚火だらけになっている今般、おかげさまで(笑)、ビジネス関連の方から、ご近所のコンビニ店員さん、ママ友、親類、はたまた、まったくもって親しくない疎遠な知り合いの方にまで
「今日も焚火?」とか
「まだ焚火行ってない?(平日に)」
と挨拶代わりに問われ、
「いやぁ、今日はちょっと…」
などとボソボソと返答せざるを得ないような「焚火バカ」としてありがたい認知を頂いている僕な訳ですが(笑)普段は、僕も、(なんと)割と仕事らしく仕事をしているのです。割と(笑)。

そういった訳で、極めてマジメなビジネスパーソンである事を自嘲的に自認する私は、「焚火したいなー」と思っても、そう簡単に出来ない暮らしの中で「気分だけでも焚火にあたりたいものだなあ」という事で、そうした気分になれるような書でも手繰ってみるか、というのがこの「読む焚火」の試みです。

いや、嘘。嘘です。
今、嘘を書きました(笑)。

そうではないのです。上述のこの本「旅をする木」の読書体験が、きわめて「焚火的だった」、
「焚火に当たっているようだった」
「焚火を感じた」
「焚火の時の自分を感じた」
と言えるようなそんな体験だったので、こんな文章を書く羽目になっている、と、それが事の真実であります。そう、それだけ。

星野道夫さんの「旅をする木」。その存在は知っていました。私にとっての勝手に師である、
前述の山田博さんの愛著だ、ということも知っていたし、その相当前、鼻水垂らしたうら若き青二才だった時からヴィレッジヴァンガードあたりで並んでいるのを横目に見ていた(ような)記憶があるし、そうでなくても、「旅をする木」というタイトルのインパクトとそれをより強固にする不思議な強さを持つ、やや武骨でシンプルな装丁が
何か訴えかけてくるような気がする書籍だな、とは思っていたのです。

が、その一方で、なぜだか、自分にはあまり関係の無い本なのだろう、とか、何かサブカルでうす汚れた自分にとっては近づいてはならない苦手な領域そうなピュアっぽさ、とか、それこそ本能的に感じる何かからによって、どうしても手に取ることが出来なかった書籍だったのでした。

ですが、今回、なぜか手に取る気になった、と、
それだけを伝えるために、実は僕は滔滔と「サイン」の話をした訳ですが、そんなこんなで、この度、この「旅をする木」と相まみえました。

というよりも、何と言いますか、おそらく、僕は今回結構はっきりと、この本に「呼ばれた」感じがあったのです。

「ああ、読まなきゃ」、「ああ、読むんだな」と。

サインは必要な時に必要なタイミングで現れます。そして、今回もまた、それは寸分違わずにそのような形で現れ、この「旅をする木」は、自分の心を射抜きました。

焚火の作用、それに、自分はなぜ今焚火をしているのか、それから、自分は何を感じ取っていそうであり、何を求めていそうであるのか、そして、それをなぜ自分以外の人たちとシェアしようとしているのか、星野さんの言葉と、その言葉が紡ぐアラスカの風景(への妄想)が言葉ではないもので教えてくれたような感覚。いや、言葉なんだけど。本だし。

つい先日、冬の森で一人で焚火をしているときに感じた、「怖い」という感情と、その後に少し遅れてやって来た「でもなんだか温かい」という気持ち周辺りの「分からない何か」的なものが、なんというか「触れてきた」とでも言うような感覚です。

それはこんな文章とともにやってきます。

「ぼくはザックをおろし、テルモスの熱いコーヒーをすすりながら、月光に浮かびあがった夜の氷河の真只中にいました。時おりどこかで崩壊する雪崩の他は動くものも、音もありません。夜空は降るような星で、まるでまばたきをするような間隔で流れ星が落ちてゆきます。」

「昨夜のようにスキーを駆ってベースキャンプから氷河へ滑り降りていった時の事でした。クレバス帯をたっぷりと覆う雪原の上に、一条の足跡がついているのを見つけました。それはマッキンレー山の方向から、ルース氷河を下っていくようにどこまでも続いているのです。一体何の足跡だろうと思って近づいてみるとそれはオオカミでした。(中略)ぼくは日々の町の暮らしの中で、ふとルース氷河のことを思い出すたび、あの一本のオオカミの足跡の記憶が蘇ってくるのです。あの岩と氷の無機質な世界を、一頭のオオカミが旅をしていた夜がたしかにあった。そのことをじっと考えていると、なぜか、そこがとても神聖な場所に思えてならないのです。」

「オオカミ」より

-50℃、無音の氷河の上を歩く一頭のオオカミの白い息遣い、サク、サク、という足音(オオカミは音を出して歩くのだろうか?)。それを「たしかにあった」ものとして追想する星野さんが見ている氷河の蒼い透明な空間、彼らに注ぐ流れ星、そして数万光年向こうからやってくる星の光、が、バラバラな時間をつないでそれぞれに邂逅していく。星野さんが事故によって亡くなって久しい今日この時に僕の中で、それぞれが、今も同時的に起きているような感覚。

僕がほんのりと感じる暖かさは、人が過去とか未来とかいう形で分類するような悠久の流れがフラットな地平で同時多発的に今もずっと生起し続けているような感じ、一人でいながらも、一人でいないような、僕が、オオカミでもあり、星野さんでもあり、氷河でもあるような、そんな存在として居ていい、と思わせてくれるような、ー50℃の厳しくも暖かい青い孤独。その暖かさなのではないか、と思うのです。

最近「ホールネス」という言葉で言われてることって多分、それなんじゃないでしょうか。

僕のにわか知識では、西洋の哲学者であるカントは人間が「時間」と「空間」という眼鏡をつけてしかものを見ることが出来ない存在である(悟性?)という認知を得た、と理解しています。また、おそらく「コギト」のデカルト以来の西洋はその眼鏡の機能と経済合理性と、よく知られるようなプロテスタンティズムを鉄の竈で焚き続ける事で、この世界を脱魔術化しました。つまり、科学的に「分析」することで、分かりやすくするために、扱いやすくするために線のひかれていない世界を線分で「分断」していった。その最果ての世界が僕たちが今見ている今日の社会であり。。。

多分、その眼鏡、の外側に触れるような体験を、
上記の文章は教えてくれるような気がします。
それは、頭と理屈ではなく、身体と直感と情緒、そして想像力の智慧なんだろうな、と思います。
そして、それらは、「一刻も早く、多くのことを、論理的に知り、意思決定する」事じゃなく、
「ゆっくり、静かに、一つのことを味わいながら、感じる」事で得られる体験のように思います。

今日のこの段階においては、僕が(-2~3℃位の夜の秋保で)火を焚く理由は、多分、その事を知るためであり、その叡智と一緒にいたい気持ちだったり、そうすれば、自分以外の人たちと本当に繋がれるかもしれない、という直感だったり、火を囲むだけでほとんどの課題はほどける事を実証したい、探求したい、という気持ちからのような気もします。

というよりも、焚火の火を焚いているときに、
僕の身体は、そう思わせるものとなにがしか出会っているのを、なんだか知っているんだろうな、と思うのです。なぜなら、自分が焚火に行きたい、と思うときは、それはもう「体が行きたがっている」という感じだからです。ほぼ身体の感覚に即して行動している感じで。

そして、それは身体の欲求であると同時に、心が欲していることでもあります。例えばそれは、こんな文章を読んだときの安心感としてハッキリと理解できます。

「私たちはここまで早く歩きすぎてしまい、心を置き去りにして来てしまった。心がこの場所に追いつくまで、私たちはしばらくここで待っているのです(エクアドルでストライキをおこしたシェルパの言葉として紹介される言葉)」

「ガラパゴス」より

「ひとつの正しい答えなどはじめから無いのだと…そう考えると少しホっとします。正しい答えをださなくてもいいというのは、なぜかホッとするものです。」

「オールドクロウ」より

そんな心と身体の経験をする中で、僕たちは、多分、何よりも時間というものとの、まったく別の形での出会い方を知るのだと思うのです。

「ぼくはアラスカを旅する中で、人間の歴史をはかる自分なりのひとつの尺度をもちました。それはベーリンジアの存在です。最後の氷河期、干上がったベーリング海をモンゴロイドが北方アジアから北アメリカへ渡ってきた、
約1万年前とうい時間の感覚です。いつの頃からか、その1万年がそれほど遠い昔だとは思えなくなりました。人間の一生を繰り返すことで歴史を遡るならば、それは手が届かないほど過去の出来事ではありません。いやそれどころか、最後の氷河期などついこの間の事なのです。」

「ザルツブルグから」より

これまで、実際に森に入って時間を過ごしたりしながら、自分なりに日常に持とうとしてきた「森の時間」とでも呼べそうなもの、を同時代に、同じ空間にある人達と共有したいな、とかその事で「解かれる」、あるいは「そういう形でしか解かれ得ない」物事、というのがはっきりと現れ出てきている、と思ってきました。

特にこの2年間は、それが地面の下でうなっているような感覚でした。それが、キャリアコンサルタントとしての僕が、この2年、転職者や経営者から浴び続けた言葉の中で感じている事です。

多分、多くの人がそんな風に、「ちょっと待って。これで良いんだっけ?」と、感じ始めていること。それは、兆し、に思うのです。

何の兆しか。
もしかしたら「ついこの間」、ベーリング海を渡ったモンゴロイドである「私」がもう一度上を見上げて、星空の息吹や、オオカミの息吹に畏怖し、同じ1枚の絵の中に共存していることを思い出すこと。頭と理性と同時に、生活の中の「モノ」やあるいは「経済」を引っぺがした時に身体として存在している自分になんだかやっと気づいているみたいな、なんかそんな感じです。

うーん。
本当だろうか(笑)?

自分が焚火をする理由は、今のところ、したいからやっている、というだけだと思うのですが(笑)、
焚火に行けない夜に手にしたこの「旅をする木」は、そんな形で僕に焚火を教えてくれて、それはあたかも、先日のような寒い夜に、身体に孤独がしみていくのを感じながら一人あたっていた焚火と、まったく同じようなそんな作用を僕に与えてくれたので、こんな文章を記してみました。

本当のところ、やっぱり僕が焚火を焚く理由は分かりませんが(笑)、少なくとも、事実として分かっているのは、焚火に来ていただいた方々が、全員必ず「幸福」「幸せ」という言葉を口にして帰っていく、という事。

上述の「これでいいんだっけ?」の気持ちへの
答えみたいなものを、皆が、焚火に見ていっているように感じてならないので、「そうだよね、きっとこの辺なんだよね」と思えてしまう、ととにかくそれが、今のところぼくが焚火を焚く理由なのかな、と思います。

焚火の出来ないある日に手にした、星野道彦さんのこの小さな文庫本「旅をする木」は、つまりはそんな、読む焚火、のような本なのでした。

ということで、みなさま、たき火ティーでお待ちしていますね。
(仙台たき火ティー:FBグループ)
https://www.facebook.com/groups/418620709996125/media





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