2020.10.19函館教育大学韓国語授業資料「『やさしさ』とは何か」

1.「やさしい」日本語 

「やさしい」って何でしょうか。「易しい」という意味でしょうか。「親切」の「やさしい」なのか、はたまた「情深い」意での「やさしい」なのか。最近は「やさしい日本語」なんて言葉もあります。「やさしい日本語」の提唱者の一人、一橋大学の庵功雄先生は、次のような例を挙げて「『やさしい』日本語」を説明していたりします。

 (1)初期日本語教育としての公的保障のための<やさしい日本語>

(2)地域社会の共通言語としての<やさしい日本語>

(3)地域型初級としての<やさしい日本語>

<庵功雄(2016:66)「やさしい日本語―多文化共生社会へ」岩波書店より>

 この3つについて私は、外国から来た人が最低限日本での活動に支障がないよう誰でも話したり、聞いたりできる「易しい日本語」。外国人以外にも、聾唖者、視覚障がい者、知的障がい者も含めた地域社会すべての人がやり取りできるような共通語としての「親切な日本語」。外国人がそれぞれ住む地域において、「地域住民」として溶け込むために必要な「互いの情を深めるための日本語」と、解釈しています。「やさしい日本語」の本を読む限り、そう外れた見解ではないと思います。でも、「易しい」「親切な」「情を深める」だけが「やさしい」のでしょうか。

「環境にやさしい[1]」はどうでしょう。「環境に易しい」、「環境と情を深める」は何かおかしい。「環境に親切」だと意味は通じるけど、「環境を破壊しない」と言い換えたほうがわかりやすいようです。そうすると、環境に「やさしい」は、「破壊しない」こととも捉えることができます。

  

2.「親しい関係を破壊しない『やさしい』」

 ちなみに、「環境にやさしい」という言葉は、韓国語で「친환경(親環境)」と言います。

「親」は「親切」の「親」でもあるけど、「親しみ」の「親」ともとらえることができる。多分韓国では両方の意味で使っていると思います(ネイティブに「친환경」の「친」は何ですか?というアンケートをしてみると面白い結果が出そうです)。でも、親切より「環境と親しくなれる商品」「環境と親しくなれる節約術」というほうが、しっくりくる気がします。「環境と人間の関係性を維持する」という「やさしさ」が伝わります。日韓の「環境に『やさしい』」「『친』환경」をミックスすると、「やさしい」とは、「親しい関係性を壊さず維持する」こと捉えなおせるかもしれません。そう考えてみると、「やさしい日本語」も、地域社会に暮らす外国人、障がい者、そうではない人々=すべての人々が、「親しい関係性を壊さず維持する」ことのできるな新概念だと説明できます。

ただ、ここで問題になるのは、「親しい関係性を壊さず維持する」ことの困難さです。私たちは、家族、友人という身近な人々をはじめ、外国人とも、障がい者とも、環境とも「親しい関係性を壊さず維持する」ことを望みつつ、その難しさに思い悩む日々を過ごしています。世間一般的に、「みんなと仲良く」とか、「けんかするな」とか、簡単に言いますが、そう上手くは行きません。『あまり深く関係性を持たなければそもそも摩擦も起こらないでしょ』と言って、山で一人自給自足しながら暮らすなら別ですが、現代社会では相当難しい。大学生ならなおさらです。

 3.「やさしくある」ことの難しさ

 ― 個人行動がしたかった。個人行動なら誰も傷つけたりしないだろうと信じていた。無害な人になりたかった。苦痛を与える人になりたくなかった。人間の与える苦痛がどれほど破壊的か体で感じていたから。

でも、果たしてそうだったのだろうか、私は。

私はそういう人間にはなれなかった。長いことその事実を噛みしめた。意図していたかは別として、迷惑をかけながら生きていくしかない私、人を傷つけるしかない私、たまに自分ですらも驚くほど無神経で残酷になれる私。(中略)悪い大人、悪い作家になるより簡単なことはないと時々考える。難なくじゃなく辛うじて、楽にじゃなく苦しんで書く人になりたい。その過程で人間として感じられる全てを感じつくしたい。それができる勇気を持てますように。―

<チェ・ウニョン(2020:336-337)『わたしに無害なひと』亜紀書房の「あとがき」より>

 と、作家チェ・ウニョンは祈りに近いことばを「わたしに無害なひと」のあとがきに書き記しています。「誰も傷つける人にはなりたくない」と願いつつも、多様な関係性の中で傷つけあってしまう自分。やさしくありたいと思っても、時には無関心になれる自分。よく最近は、「自分の利益優先に考える人が多い」とか、「自分勝手な人が増えている」とか言う人がいますが、それは「[我が」まま」に生きた結果というよりも、むしろ傷つけあうことが怖くて、人間関係を深めることをできるだけ避けたいと願うことから、「冷たい」「無関心」という印象を与えてしまった結果だと言えないでしょうか。「やさしくありたい=関係性を壊したくないが故の無関心」とでも言えるでしょうか。私たちは人生経験から、とりあえず「笑顔で親切に接していれば」関係に摩擦は起きないと信じています。相手の「心の奥底に見え隠れする悪意」に気づいていたとしても、「わたしに無害」なうちは咎めたりはしません。私も無駄に争うことは嫌です。笑顔や優しさの奥深くに残酷さや無神経、無関心があったとしても、見て見ふりをして過ごすこともあります。

争いを避けた「やさしさ」で、「関係を壊さず維持できた」としても、「親しさ」はすっぽり抜け落ちてしまう。私たちは「やさしさ」を保つために、「親しさ」を意識的であれ、無意識的であれ削り落としていることが多いと思います。

 

4.「やさしさに『親しさ』」を取り戻すために

  近年、韓国文学界で話題になった「82年生まれ、キム・ジヨン」[2]の著者チョ・ナムジュは短編「ヒョンナムオッパへ」を通して、「男性の女性に対する優しさが、時には暴力となる」ことを暴き出した傑作です。「彼女のためを思って」『してあげる優しさ』が、実は女性の側から見ると、自分の自由を奪われ、一人の人間として認められていない存在のように扱われていることを、彼氏への別れの手紙という形で訴えます。それに呼応するかのように、最近は様々な韓国文学や映画の中に「やさしさ」を批判的に語る作品が見られるようになっています[3]。今年の8月に日本語訳が刊行されたチョン・イヒョンの「優しい暴力の時代」は、「やさしさ」と「暴力」といった、相反する単語を組み合わせたタイトルです。チョン・イヒョンは次のように述べます。

 ―今は、親切な優しい表情で傷つけあう人々の時代であるらしい。

 礼儀正しく握手をするために手を握って離すと、手のひらが刃ですっと切られている。傷の形をじっと見ていると、誰もが自分の刃について考えるようになる。―

<チョン・イヒョン(2020:229-230)『優しい暴力の時代』河出書房の「作家のことば」より>

 あなたを思って言っている」、「これは、あなたのためだから」という前置きをしておけば、なんだか親切に聞こえます。でも、「あなたのため」「外国人のためだから」「障がい者のためを思って言っている」という言説は、本当にその人のためなのでしょうか。もしかしたら、「あなたのため」と言いつつ、相手には無関心で、「自分のため」に言っている言葉じゃないか[4]。押しつけがましい態度や暴力的になっていないでしょうか。その判断基準の一つとして、私は「親しさ」が使えると思っています。「わたしは、彼らに親しみを感じられるか」を問えばいいのです。

 例えば、「やさしい日本語」は、「相手に親しみを覚えて話せているか」が、「やさしい日本語」を使えているかの基準になると思います[5]。「環境にやさしい」は、「環境に親しみを覚えているか」、「障がい者にやさしい」は、「障がい者に親しみを覚えているか」が判断基準になります。「あなたに対するやさしさ」は、「親しみを感じられるか」が判断基準です。

 だから、「互いに『やさしく』接しているけど、なんだか本当の友達と言えないな」、「家族にやさしくできないな」と、人間関係に空しさを感じる時、「親しさ」がどれだけ感じられるのかを、自分に問うてみるといいと思います。

 5.必ずしも「良い人」になれなくても、「親しく」あること

 必ずしも良い人であることが、「良い人」と認識されるわけじゃないということの原因はここにあるのかなとも思います。「あの人って良い人なんだけど、、」という言説は、仕事ができないと言われちゃったりするんですけど、人に無関心なままでまじめなことを言っていても、こう言われちゃったりするかなと思います。大概、「親しみが抜け落ちた」親切や、優しさで対応されると、結構気づかれちゃいますからね。

長々と話してしまいましたが、何の話をしているかって皆さん思ってますよね。私もなんでこんなこと書いているのかなと思いながら書きつらねていたんですけど、書きながら「ああ、これを書いている理由は、日韓関係の在り方について語りたかったんだな」と言うことに気づきました。

日韓関係ってほら、過去の歴史問題からはじまって、現代でも、やれ、GSOMIAの延長だ、関税増税だ、ビザ発給取りやめだとかいろいろありすぎて、「見たくないな、こういうことに無関心なまま、韓国語勉強して、韓国に行って遊びたいな」と思いたくなりますよね。「日韓問題はとりあえずスルーして、笑顔で親切に、良い人になって接していればいいじゃん。仲良くなったら分かり合えるよ。」そう思いたくなってしまいます。でも、「相手が抱えている痛み」とか、直接日本人になにかされた人じゃないけど、韓国の人々が教育や社会のなかで形成される「日本に対する感情」とかを無視したままだと、「親切な優しい表情で傷つけあう」結果を生んでしまわないかなと。やはり、本当に相手と親しくなろうとか、向き合おうと思うと、一緒に背負えないよと思うような心の傷とか、面倒な感情とか共有しなきゃいけないんじゃないかなと、私は思います。

確かに、「今は昔と違うから」と言ってくれる韓国人もいます。無駄に日韓問題について触れようとしない人もたくさんいます。そこにわざわざ議論を吹っ掛ける必要はないとは思います。「何に親しみを感じるか」も人それぞれだと思います[6]。ただ、韓国の人々と付き合うと、どうしてもニコニコ笑顔でいい人になって親切にしていても、通じ合えない虚しさを感じることがあります。その逆に、韓国の人が親切に接してはくれているんだけど、どこか壁があるような感じがする。それは多分、私や相手の中にある「親しくできない何か」が邪魔をしているのかもしれません。韓国が大好きで、韓国の歌も聞く、ドラマも見るという生活(私は意外とそうじゃないんですけど)の中にいて、韓国の留学生に親切に接していたとしても、何かの拍子で「韓国ってさ」「韓国人ってさ」という言葉を発する自分がいるとすれば、「親しさ」が抜け落ちた「良い人」であるだけ。相手を理解しようとする気持ちが抜け落ちている「良い人」なだけです。

日韓問題というスケールのでかい話じゃなくても、常に家族、友達との関係でだって、親切な優しい表情で傷つけあう危険はあります。普段から、「親しさ」を自覚するために相手のことをどれだけ知れているかな、相手にわかってもらえているかな、ということを考えながら、日韓関係における「親しい関係性を壊さず維持する」方法をそれぞれ身につけていってほしいと思います。そのためには、日韓関係の勉強も必要です。まあ、という私も身についてはいないわけですが。

<今回のオススメ図書>

金春喜(2020)「『発達障害』とされる外国人の子どもたち」明石書店

「やさしさ」は難しい。相手のためを思ってしたことでも、それが本当に相手のためになったのか。「相手のため」といいつつ、相手の自由を奪う結果を招いてしまっていないか。「あなたのため」といいつつ、「自分の保身のため」に、相手を思うようにコントロールしてしまう可能性を、我々教員をはじめ、親、上司、さらに言えば政府など「抑圧する側にいる者」は常に心に留めておかなければならない。

本書は、「温情主義(パターナリズム)」という観点から、外国人の子どもの支援をしていた人々の「語り(ナラティブ)」を分析し、「やさしさを持って」支援をしていた人々が実は、子どもたちの選択肢を狭めていたのではないかと疑問を呈する。ただし、著者は支援に関与した人々を断罪するのではなく、あくまでも「日本社会」の構造の中にこそ、温情主義にならざる負えない問題点を指摘している点に注意して読んでほしい。

この本で分析されるのは、「語り」である。この「語り」の分析を通して、高校進学という岐路に立たされた子どもが、どのように「やさしさ」によって抑圧されていったか、その過程を追体験できる本になっている。化もされ、日本公開は10月9日から順次全国公開の予定です。

[3] いじめ問題を扱った韓国映画「優しい嘘」は、「やさしさ」とは何かを問う秀作です。単純に「いじめる」「いじめられる」という二項対立的な関係の解消が「いじめ」を解決するものではないことを教えてくれます。また、「いじめ」とは異なった観点ですが、映画「わたしたち」もまた、人間関係の難しさを教えてくれます。「優しい嘘」は中学校の話、「わたしたち」は小学校の話で、韓国の子役の演技力の高さにも驚かされます。

[4] 特に、大学の研究テーマが「〇〇人を対象に」というテーマの人は、自分がただ単に興味本位で知りたいだけなのか、本当に相手のためになることなのか吟味して研究しましょう。外国人についての研究で、取材材料として「外国人」が消費される研究は結構あるような気がします。

[5] 「やさしい日本語」の本質的なところは、易しい文法や語彙で話すこと以前に、相手に親しみを覚えているかが大事だと思います。

[6] 産経新聞2019年12月20日(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53612530Q9A221C1EA3000/)のように、各新聞社でやっている「韓国に親しみを感じるか」アンケートは、「何に親しみを感じているか不明」な点は多く、このアンケートは意味あるのか?と思うこともあります。

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