2020.01.27函館教育大韓国語授業資料「福祉言語学」はじめませんか?

皆さん、1学期間お疲れさまでした。たった1単位(?)のために毎週苦労しなければならない授業、大変だったかと思います。私が大学1年生の頃だったら、正直大変だなと思う内容を皆さんに課しています。でも、そうでもしないと、大学生というある程度の年齢期に勉強する意味がないと思うんですよね(と、アラフォーになったおじさんは思います)。いくら一から覚えなければならないことだとしても、一桁の足し算や九九段のようなことだけで1学期(45時間)が終わってしまうだけなら、わざわざ大学でやることではないような気がします。2を2回足すのと2×2は概念的に何が違うのかとか、「無限って何?」みたいなことを考えるのが学問って感じがしますよね?だから、韓国語も「覚えられない」「何も見ないで書けない」という次元だけでなく(覚えるとか書けるというのもすごく大事なことです。別にこれをしないで、いきなり難しいことをしろと言っているわけではありません。それは、家でしてねというスタンスです)、韓国語の「会う/만나다」は、「~に会う」ではなく、「~を会う」というように助詞「を/을,를」になるのはなぜだろうとか、授業でやったように韓国語で「どこ行くの?」は挨拶言葉になるんだとか、そういう「考える学び」を大学でしてほしいのです。しかし、この短い授業だけでそれをすべて扱うことは不可能(私は何時間でも教える知識と意欲はありますが、カリキュラム上そんな時間はありません)です。ですから、あとは、皆さんが各々自学で頑張っていただくしかありません。

ただ、ちょっと心のこりだったのは、大学は究極のサブスク(定額学び放題)なのですから、先生を捕まえて、「作文たくさん書いてきました。見てください!」「これを教えてください!」とできるはずなのですが、教えを請う人がいないことです。見る宿題の量が多いからあなたは追加料金ね、何てことは大学では普通ありませんし、個別の質問にオプション料金が発生することはありません。そこらへんの安物アプリで課金地獄になるような仕組みではありません。だから、もっと聞いてもいいんじゃないかなと思います(まあ、その先生との相性ってのもあって、聞きたくない先生もいると思いますけど)。

さてさて、前置きが長くなってしまいましたが、この最終講義で何を話すかは、いつも決めていないので、受講する生徒だとか、私の関心事で話す内容が決定します。去年は「福祉言語学」ってのがあるらしいよ。という話で終わりました。この3、4年くらい社会福祉士になるための勉強をしていたというのもあったのですが(2019年社会福祉士になりましたよ!)、言語教育と福祉の考え方をつなげられないかなとずっと模索していました。ただ、福祉と言語教育をつないだ研究みたいなのは、「やさしい日本語」くらいで、外国語教育研究、つまり、この授業のように、ほぼほぼ日本語母語話者が日本国内で外国語を学ぶ環境での研究において、福祉の概念を導入した研究ってのは見たことがありません。というのは、外国語教育×手話教育とか、外国語教育×自閉症児童支援教育とか、たぶん連携可能なはずの分野同士なのですが、連携を全くしてないわけです。本来は、隣接した分野で、お互いの知見を持ち寄れば、すごく有用なのにも関わらずです。

「福祉言語学」ってことばあるかなーどうかなー、みたいな感じで検索かけたのが去年の話。出てはきたんですけど、全然活発に議論されていない。誰か仲間がほしいなぁ、同じ考えの人たちいないかなーなんて、思いながら過ごして1年が過ぎてしまいました。福祉言語学について何も考えられずに、1年が過ぎてしまったので、この文の結論も何も内容がありません。すみません。ただ、今回一つの結論じみたことを授業の中で述べて終わりたいと思います。

社会はコミュニケーション能力が高い人を求めているとよく言われます。でも、そのコミュニケーション能力というのは一体何かという定義は共有されているように思えません。「嫌いな人とも仲良くできる」ことをコミュニケーション能力としても、「自分自身が嫌われている状態を知らずに、相手に受け入れられている場合」というのもあるわけで、自分自身はみんなと仲良くできていると自己評価できても、嫌われていたらそれはどうなのか?そもそも、コミュニケーション能力が高いことが良いという社会で、寝たきりの障がい者をどう社会に包括するのか、みたいな様々な疑問が沸き起こります。そんなことを考えると、話す話せないを問題にするのではなく、もっと違うことを問題にしたほうが、いろんな人が共生しやすい社会なんじゃないかなと。話せない寝たきりの障がい者であってもコミュニケーション能力はあるよ、という強い根拠を持って、「現代社会のコミュニケーション能力(話せる絶対主義)」に対抗するためには、人間そのものの存在に着目する必要があるんではないでしょうか。だから、福祉の視点が必要なのです。

例えば、寝たきりの人であっても、誰かの介助を受けていますよね。言葉が発せない赤ちゃんも親の保護受けてます。それは、本人が発せないヘルプを他者が汲み取って、代行するとか代弁する形をとりながら、共存する関係です。つまり、そのありのままの姿を認めるなら、たとえ他者が気持ちを汲み取って他者が行動を起こしているとしても、「困ったときに助けを求められている」という意思は発せていることになります。ということは、「困ったときに助けを求められる能力」があるわけです。これこそが、社会を生きていくうえで必要なものなのじゃないかなと思えてきます。だって、それがないと生きていけないわけです。

健常者は、自分は健康だから自分でなんでもやらなきゃいけないと思いがちです。しかし、自分一人で生きている人なんて一人もいません。だけど、強く生きようとする人ほど、助けを求められなくて、逆に孤立したり、困難な状況に追い込まれてしまうということが起こるのは、この社会を見ていれば容易に想像がつくと思います。私たちはもっと弱さを認めて、「助けを求める術」を勉強する必要があるのかなと思います。「福祉言語学的観点」から言えば、外国語教育のコミュニケーション能力の目標も、「弱さを認める」とか、「助けを求められる」ということになっていくのではないかなと思います。ただ、現代社会は、これに同意してくれる社会ではない気がしますが。。。

 考えること

 1.皆さんには、助けを求められる人が周りにいますか

2.自分の弱さを見せられるような、信頼できる人が周りにいますか。

3.疲れたら休むことを忘れていませんか。

 講師の今日のオススメ

 民俗学者・柳田國男の孫弟子にあたる、大塚英志の大学論、「大学論~いかに教え、いかに学ぶか」(2010,講談社)は、大学での学びをどう自分で保証すればいいのかを教えてくれる本です。大塚英志といえば、「多重人格探偵サイコ」とか、「マダラ」とか、中二病全開の漫画の原作者で、例にもれず私も中二病の時はハマりにハマってました(ああ、趣向がバレる。。。)ただ、この本は大塚氏がまんがを書く大学で、生徒をどのように指導したか、また自分が学生時代どのように大学で学んだかを事細かに記述してある本です。教師だけでなく、学生にとっても面白く読める本だと思います(ただし、社会学、民俗学、漫画が好きな人に限る)。論文やレポート書きに困ったときは暇つぶしに読むと、アイデアを得られるかもしません。黒田龍之助(2013)「ぼくたちの外国語学部」(三修社)は、外国語学部で指導

する著者と学生との間で起こったエピソードを赤裸々に記述した本です。外国語学部ってどんなところだろう、外国語学部に行けば他の学部より簡単に外国語が学べるんじゃないかな、と外国語学部を妄想して夜も眠れないという人には一読の価値ありです。そして、他の人の大学生活ってどんなもんだろうと、覗き見たい人にも面白いと思います。もしかしたら入試し直すとか、編入とか考えてしまようになるかもしれませんが。両方の本とも「大学で学ぶ」って何だろうを教えてくれる本ですので、大学生のうちに読んでおくと勿論いいですし、社会人になっても有効活用できる知識になると思います。現代社会は「学び続けなければならない時代」とも言われていますし、何より、学び続けないと人生結構つまらなくなります。学べる力があると人生楽しいですよ。新しいことが知れるし、考え方がどんどん変わるので、次は何考えようかなみたいな人生に切り替わります。ということで、今回紹介した本は、なんか世の中つまらんよ、学校つまらんよ、友達もつまらんよ、なーんて思えてしまった時の処方箋としてお勧めです。今学期紹介しきれなかった本もたくさんあるのですが、まあ、それはまたどこかで会った時に紹介したいと思います。それでは、アンニョン。


考えるためのティップス

 福祉言語学ってそもそも何?という人もいると思いますので、私が去年の授業で書いていた文をそのまま再掲載しておきます。

  

~「外国ルーツの児童支援」「やさしい日本語」という社会保障の話~

 <やさしい日本語>

 「環境にやさしい」という言葉は、韓国語で「친환경(親環境)」と言います[1]。副詞的に使う時は「的」を付けて、「친환경적」と言います[2]。「地球にやさしい」とか、「目にやさしい」とか、最近は外国人にやさしい日本語、「やさしい日本語」なんてのも登場しました。「外国人にわかりやすい日本語」ということらしいです。阪神淡路大震災の際、「やさしくない日本語」のせいで、外国人が災害情報にアクセスできないことが起きたことを切っ掛けに、社会言語学者とNHKのアナウンサーらが協働して研究したのが始まりです[3]。「外国人にわかりやすい」という観点では、40年位前にすでに、「簡約日本語」[4]という考え方が提唱されていましたが、日本語を簡単にするという点でやっていることは似ていても、「情報弱者の救済」という点で目的が異なっています。阪神淡路大震災が1995年、その後5年を経て、松田陽子・前田理佳子・佐藤和幸(2000)「災害時の外国人に対する情報提供のための日本語表現とその有効性に関する試論」というのが発表されます。初期のやさしい日本語の代表的な資料です。2000年ごろからは災害時の情報提供という観点以外の研究が同時進行し出します。例えば国立国語研究所は、難解用語「外来語」と「病院の言葉」をわかりやすくする提案を行っていたりします。「皆が平等に情報にアクセスできる」ようにしなければいけないという風潮は、「外国人のためのやさしい日本語」だけでなく、「日本語母語話者のためにも」研究されていくのが2000年代(ゼロ年代)なわけです。2010年代(テン年代)以降は、東日本大震災という大きな災害によって、「やさしい日本語」の必要性が益々強調され、さらには、多様性、ダイバシティという言葉が流行し始めると、多文化共生という観点から、

 (1)初期日本語教育としての公的保障のための<やさしい日本語>

(2)地域社会の共通言語としての<やさしい日本語>

(3)地域型初級としての<やさしい日本語>

<庵功雄(2016:66)「やさしい日本語―多文化共生社会へ」岩波書店より>

 という、「やさしい日本語」が提唱されます。特に(2)地域社会の共通言語としての「やさしい日本語」は、外国人はもちろん、外国にルーツを持つ子ども、さらには日本語を母語とする人全て(障害者も当然に)含まれているのが特徴的です。難解用語のせいで情報にアクセスできないということは、日本語母語話者にもありうる話ですし、やさしい日本語は私たちの「ことば」として捉えなおさなければならない時代になってきています。

  

<ウェルフェア・リングイスティクス>

 日本語がちょっとできる外国人が日本旅行をする時、なんとかわかる程度の文法・語彙のみで書かれていたり話しかけてもらえると日本旅行が楽しくなるよねとか、帰国子女や外国にルーツがある子どもが日本語のみで学校生活を送り日本語を習得する際、必要最低限の文法・語彙をまず学ぶのなら負担にならないよねとか、「やさしい日本語」は今、ツーリズム[5]、子どもの人権保障などにその範囲を広げています。ただ、「やさしい日本語」を「日本人のため」と捉える風潮があまり感じられないことに残念な思いがします。

昨年、NHKの障害者のための情報バラエティ「バリバラ」[6]という番組を見ていたら、知的障害者にもわかりやすいニュースとは何かについて放送していました。知的障害者の中には「読むのが早くて聞き取れない」「むずかしい漢字が多い」「政治のニュースがわからず選挙で困る」という人が多くいるそうです。多分これは、外国人や外国にルーツを持つ人の中でも問題になる事柄です。番組では、実際のニュースを聞いてもらって、当事者がどこで躓くのか、どうすればわかりやすいニュースになるのかをアナウンサーと当事者間で話し合う内容でした。私は、「これって『やさしい日本語』だよなぁ」と思いました。そして、特別支援教育や障害者支援を勉強する学生と、日本語教師を目指す学生が共に学びあえる場があれば、もっといいなあとも感じました。やってることが一緒なのですから。

「やっていることが一緒」で思い出しましたが、昨年認知症サポーター(認知症の人を理解しサポートする人)の研修を受けた時、見た動画の内容が、「ゴミ出しの曜日を間違えてゴミを出した高齢者にどのようにわかりやすく言葉をかけるか」「コンビニでお金を出すのに苦労している高齢者に、どのようにわかりやすく言葉をかけるか」というものでした。「ゴミの出し方を教える」とか「お金の支払い方に対する「やさしい日本語」」って、「あれ、地域定住外国人に対してボランティアがやってることと同じじゃん」って感想を持ってしまいました。

高齢者、知的障害者と外国人を一緒にするとはけしからんという反論を言う人がいるのは確かだと思います(実際こういう話を地域日本語ボランティアの研修会で話したりすると難色を示す人がいます。外国人は障害者じゃない!という反応と、私たちは障害者支援をしているわけじゃないという反応が大半です)。だけど、「やさしい日本語」や日本語教育ボランティアの観点によって、外国人を含め、地域に住む人皆が便利だねと言える世の中になっていく(そもそもバリアフリー、ユニバーサルという概念はそういうものでありますが)というのはとても良いことなはずです。

言語教育でも一緒です。言語教育では、「話す」「聞く」「書く」「読む」という4技能ができるようになるための指導法を研究したりします。これらの研究は大抵、『健常者』を対象としています。だから、知的な障害がないことが前提で、口や舌の形が正常で、耳も正常に聞こえ、目が見え、手と指の関節が動かせる人が対象ということです。そして、このような人を対象に考える研究では、「発音が下手なのは練習が足りないからだ(そもそも舌が短いとか身体的な特徴も関与します)」とか、「聞けないと話せない(難聴者の中には、死に物狂いで練習し健常者と同じように発音できるようになる人もいます)」とか、「見えないと読めない(点字も「読む」の内に入りますし、盲学校では、点字で英語の授業をしていたりします)」とか、障害者側からすれば「何言ってるの?」というような言説をばら撒いていたりします。このように考えると、言語教育は、「人が言葉を獲得する」という実像をとらえられないまま何十年も地道に研究しているんだなぁと思います。

私はなぜ今のいままで、このような人たちと共に言語教育を考えてこなかったのだろうと不思議に思ったりもします。もし、本当の意味で「人」に焦点をあてた言語教育研究を発想できていたなら、様々な分野が協力し合って、もっと人としての実像に近い、「人のためになる」言語学が確立していたんじゃないかと。そう思ってたら、もう既に、「人のためになる」言語学という言葉がありました。「ウェルフェア・リングイスティクス」というそうです。つい先週この言葉を見つけました(2019年1月23日のことです)。徳川宗賢とJ.V.ネウストプニーが対談の中で用いた言葉です[7]。お二方はもう亡くなられていて、どうやら、この「ウェルフェア・リングイスティクス」は、今それほど研究されていないようです。「福祉言語学」とも訳されるこの分野は、提唱者が亡き今、「福祉言語学とは何か?」を提唱者の言説を紡ぎ紡ぎ考えていかなければならない分野です。ちょっと面倒くさそうな分野です。だから、もう誰も手を付けない分野かもしれません。しかし、「やさしい日本語」が社会保障となりつつある現代において、「人のためになる言語学」という「ウェルフェア・リングイスティクス」とは何なのかを再考しても良いなと思います。私自身、先週出会ったばかりの言葉なので、何をどうしろという話まではできないのですが、学術分野は単独では発展しないと思っています。今やってる勉強に何か物足りなさを感じている学生は、「ウェルフェア・リングイスティクス」について調べてみてもいいかもしれません。すると、国際協働で言語教育をする学生も、地域政策でまちづくりを学ぶ学生も、地域教育で特別支援を学ぶ学生も、地域環境で環境デザインを学ぶ学生も共同で学べる場が作れるような気がするのです。

 <「国際」と「福祉」って本当につながらないの?このままでいいんだろうか?> 

野澤和弘編著(2016:3-5)「障害者のリアル×東大生のリアル」ぶどう社より

 東大生ってなんかおかしい、そう感じ始めたのは入学したばかりのころだったと思う。

東大では、四月初めに新入生向けのサークルオリエンテーションがある。様々なサークルや部活動が教室にブースを出し、新入生に説明をする。人だかりができるのはテニスサークルや国際系の学生団体が集まる教室だ。

長い受験勉強の末に東京大学に合格した新入生は、後から思い返すと恥ずかしいくらい全能感に満ちあふれていて、そのうちの一定数は国際系学生団体に集まってくる。世界の深刻な貧困や紛争問題に心を痛め、英語でバリバリ議論することや、「グローバル」「国際」といった言葉の持つかっこよさに無意識のうちに惹かれるのだ。まるで人気が少なくて、がらんとしていたのは、福祉系のサークルが集う教室だった。

私にはダウン症という知的障害のある六つ下の弟がいて、なんとなく福祉系サークルが気になり、のぞいてみた。手話を学ぶサークル、点字を学ぶサークル、脳性麻痺の人の介護のボランティアをするサークル・・・どれもしっくりこなかった。私はなんだか息苦しくなってその教室を立ち去ってしまった。

アフリカの貧困を考えるのは大人気で、国内の障害者のことを考えるのは不人気なのはなぜなのか。きっとそれは差別とかではなく、障害のある人たちの抱える大変さに無関心なわけでもないと思う。「障害のある人を差別してはいけない」「障害のある人に対して配慮やサポートをしなければならない」という絶対命題に辟易し、無意識のうちに腫れ物のように遠ざけてしまっているからではないだろうか。

そしてもう一つ。東大には、「福祉=自分たちが関わる分野ではない」といった意識があるのだろう。福祉分野で活躍してもかっこいいとは思わない。知的好奇心をかきたてられる分野でもない。

身近なところにいる障害者を敬遠し、アフリカの貧困に飛びつく学生が多いということに対して、悲しいとか心が痛むとかは思わなかったが、もうこういう空気を感じるの嫌だ、とても嫌だと思った。なぜ、「障害」という言葉や存在は人々から敬遠されなければいけないのだろう。なんで腫れ物のように扱われなければいけないんだろう。

東大生たちが障害者に目を向けるようになったら。「福祉」系のサークルが集まる教室が、柔軟な頭と高い感受性と強い意志をもった新入生であふれたら・・・。東大で障害者問題をメージャー化しよう、そう思った。


[1] 余談ですが、2019年の韓国トレンドに「필환경(必環境)」というのがあります。「これからは環境保護は急務な問題で、中国へのごみ輸出はストップされた今、ごみを出さないというのは当たり前、地球に優しくとかなんとかいってられない、もう『必(ず)環境(保護)に努めなければいけない』」という意味らしいです。

[2] 本当に余談ですが、先日の2019年センター試験韓国語の問題文に「열섬현상(熱島現象)」というのが出てきて、「何だこの4字熟語は!」と思ったんですが、意味は「ヒートアイランド現象」でした。

[3] 庵功雄(2016)「やさしい日本語―多文化共生社会へ」岩波書店

[4] http://www2.ninjal.ac.jp/nkanyaku/000269.html

[5] 東京オリンピック・パラリンピック準備局では「やさしい日本語」を使えるようになりましょうって宣伝していますよね。

[6] NHK「バリバラ」(4月22日放送)。バリバラはNHKの尖がった姿勢がもろに出ていて面白いです。特に、日本テレビの24時間テレビを放送する時には、裏番組で障害者当事者が「24時間テレビの当てつけ」をやったりして、すごい番組内容になっています。

[7] https://www.jstage.jst.go.jp/article/jajls/2/1/2_KJ00008439740/_pdf/-char/ja

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