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【アートはウンチだ】アート思考よりも根源的なウンチ的アート


あれ?、アートってウンチみたいじゃね??

ここ数か月のうち、最も大きかった気付きです。文字に起こしてみると、それなりのパワーワードですね。

気付き以降twitterを中心に「アートってウンチだよね」とつぶやく機会を増やしているのですが、一向にイイネもRTも付きません。いや、誰がウンチを連呼するアカウントに絡みたいものかとセルフツッコミ。

この記事を訪問いただいた奇特な皆さん。これから私はアートとウンチについて語りつくします。途中、アートの話しをしているのかウンチの話しをしているのか分からなくなります。それでも良ければ読み進めてください。ベタな注意書きですが、夕飯がカレーの予定の方はご注意くださいね。


01.アートは誰にでも出来る行為、さながらウンチのようなモノ


私はアートを「誰にでもできる行為」だと思っています。

むしろ、アートは「できる」「できない」という選択肢のフィールドになく、無条件で「する」ものだと考えています。それは私たちが日常的にする「ウンチ」のようなモノなのです。

価値があるからアートするんじゃないんです。人間だからアートするんです。ウンチも同じですよね。価値があるからウンチするんじゃないんです。人間だからウンチするんです。

でも、現代社会はなぜかアートすることが普通ではないような空気をつくっています。その空気はひとりひとりがアートすることを阻害しています。自分にはアートなんて出来ない、センスもない自分がアートして良いんだろうか、そんなコトを考えていないでしょうか。

この文章をウンチに置き換えてみると、その異常っぷりが伝わると思います。「ウンチに置き換えるお前が異常だよ」というツッコミは横に置いておいてください。

(ウンチ変換文)

現代社会はなぜかウンチすることが普通ではないような空気をつくっています。その空気はひとりひとりがウンチすることを阻害しています。自分にはウンチなんて出来ない、センスもない自分がウンチして良いんだろうか、そんなコトを考えていないでしょうか。

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うーん、ちっとなぁ、なんでウンチするのに許可が必要なんですかね?

と、のっけから暴走気味にスタートしたアートisウンチ論ですが、なぜ私がこう考えるようになったのか、なぜウンチするようにアートするのか、その辺りをアートの話題とウンチの話題を行き来しながらご説明したいと思います。アートとウンチの狭間で反復横跳びする感覚でお話ししていきましょう。



02.アートへの期待と、崇高になり過ぎたいまのアート


「アート思考」って言葉を聞いたことのある方も多いのではないでしょうか。ここ数年で一気に市民権を獲得したワードです。ネットで検索すれば関連書籍もそれなりに出てきますね。乱暴に表現すると『正解のない時代に自分なりの「問」を持とう!』という思考法です。

どの方向に進んでいけばよいのか誰も提示してくれないし、誰かの提示が正解なのかどうかもわからない(そもそも正解が存在しない)社会になっているわけだから、自分なりに問を立てることが個人の人生においてもビジネスにおいても大切になりますよ・・・という考え方。とても今の時代を捉えていて、流行する要素を持っている思考です。

ところが、実際にアート思考の関連書籍などを勉強してみたり、いろんなセミナーに出てみたりするなかで、違和感を覚えてしまったのです。そこで、アート思考についての課題と、それを突破するためには「行為としてのアート」が必要だというコトを記事にしてみたりしたのです。

でも、この記事を書いた後も結論を自分で出したようでありながら、どうにもスッキリしないのです。

なんでだろう?、「問」って言葉に違和感があるのかな。アート思考の示しているアートが「アート界における価値創出」から生まれたモノのような気がして違和感があったのです。この辺りはうまく言語化できていません。もうちょいうまく表現できるようになったら追記します。

「アート界における価値創出」とはルネサンス以降の「アートの世界」が価値を獲得してきたプロセスです。「問」という大きなテーマも、そのプロセスのなかで生まれたものなんじゃないかなぁと感じました。

アートの要素として「問」は確かに存在するでしょう。でも、「問」もアートの一要素に過ぎないんじゃないの?、そんな違和感があったのです。

余談ですが、アート展の作品解説って「もってこねくり回した」表現を使いますよね。私のようなバカは一読したところでまったく意味を理解できません。そうやって崇高なモノにして価値付けしようとしているのかな?とも考えてしまいます。

私は「アート界」の価値創出のあり方みたいなモノには興味がないんです。いや、そもそも「アート」と「価値」を結び付けている、それが強い違和感の根本かもしれません。

価値があるからアートするのかな?、価値がなければアートしないのかな?、なんてことを考えていました。ちなみにこの時点ではまだ「アートはウンチだ」の神託は降りてきていません。

「アート」って一体どんな行為なんでしょう?

何を指して「アート」って言うのでしょう?

「アート」と「そうではないもの」は何をもって分かれるのでしょう?


「アートは誰もが実践できるもの」

この仮説は以前からずっと持ち続けていました。しかし、それがルネサンス以降のアート界における価値づくりの流れから生まれた考え方にあてはめる違和感があったのです。



03.原始のアートにみる、日常に溶け込む「表現」


と、ウンウンうなっているところに一つの出会いが訪れます。「縄文式アート思考」というマニアックにマニアックを掛け合わせて発酵させたようなテーマのオンラインセミナーです。ここで一種の「原始のアート」に出会います。

縄文土器の実物を見たことはありますか?、残念ながら私はまだ実物を見たことがないのですが「火焔土器」と呼ばれるような装飾性の強い土器の存在は皆さんご存じでしょう。

縄文土器を見て岡本太郎は強い感銘を受けたようです。なんて創造性に溢れた表現なんだと、現代を生きる私たちにも感じられるはずです。

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さて、ちょっと質問を変えましょう。縄文時代の火焔土器って何に使われていたかご存じですか?


私も驚いたのですが、ごくごく日常の「煮炊き」に火焔土器を使っていたようです。実際に土器の成分を分析すると煮炊きに使っていた形跡が見て取れるらしいです。考古学スゴい。

普通に考えると祭祀のための器具かと思いきや、普段使いするアイテムだったんです。現代を生きる私たちからすると「何の意味があるんだろう」と思ってしまう行為ですよね。なんでわざわざ使いにくい作り方をしてしまうのか。

ここで、縄文人の考え方と生活について2つの想像が生まれます。ただの想像ですが、リアルな想像です。

一つは、縄文人にとって「アート」と「日常」は同一線上であり、一体化していたというもの。もう一つは、縄文人の生きる目的は「自然との一体化」だったのでは、というものです。

私たちは私たちの感性で「アート」と「日常」を切り分けて考えてしまいます。だから、縄文人の火焔土器もアートのニュアンスから覗き込んでしまいます。

しかし、縄文を生きた人々にとってアートも日常も溶け合っている行為の一環だった。だから、日常的に使う「鍋」に「火焔」を表現したことも自然な流れだったのかもしれません。

そして、縄文を生きた人々は、自分と自然との一体化を目指した。生きるという行為そのものと自然を一体化させるような「表現」を日常のなかで自然と実践していた。

現代を生きる私たちが見ても、火焔土器の文様から「自然」を感じます。同じように縄文式アート思考のセミナーでは「自然」を感じとる人が多かったのです。皆さんはどうでしょうか?

このように、縄文時代では「生きる」と「アートする」が一体化していたと想像できます。それこそウンチと同じように息をするようにアートしていたのかな?

こう想像すると私たちがいかにアートから遠い生活を送っているのかという気付きにもなりますね。

もしかすると「アート」って言葉を使うことが、余計にルネサンス以降のアートを想像させてしまい敷居を高くしているのかもしれません。これを、もっと違う言葉に変換するなら「表現」だと思います。

ただ、ルネサンス以降のアートは「表現」と言ってしまうと乱暴なのでしょう。ルネサンス以降のアートは「アート」と表現するしかないと思います。となると、「原始のアート」は「表現」と言い換えられるのではないでしょうか。

だから、私たちが思い出すべきものは「原始のアート」であり「表現」なのです。そして、「表現」は「日常と一体化」したものなのです。だから「アート」は「ウンチ」だと言えるのです。



04.アートとウンチの共通点


さて、もう少しアートとウンチの共通点を掘り下げてみましょうか。ウンチもアートも自分を起点にした表現です。そして、実は自分が起点と言いながら、その自分は外から何かを取り込むことにより出来上がっています。

「自分のソト」を「自分のウチ」に取り込んで、再構築する。これが表現です。同じように口から食物を採る、胃腸で消化する(栄養に変換する)、ウンチにする、出すというプロセスを取ります。ウンチとアートの共通項です。

ときに生みの苦しみのようなモノを感じるときもあれば、思いのほか快便なときもある。出し終わったときにスッキリしていることもあれば、どうにも何か残っているような感覚があることもある。

でも、それらは自らが捻り出したものである。そしてそれは、自らが取り込んだモノを自らが再構築したモノである。ウンチの話題なんだかアートの話題なんだか分かんないでしょ?、両方です。

アウトプットという言葉がありますね。自分に取り込んだものを自分なりに再構築して体外に排出する行為です。「アウトプット」というこの言葉をよく見てください。実はこの言葉の語源は「アウト」に「プっ!と」するというダジャレからきています。まさにウンチ的ワードなのです(大嘘)

くだらない冗談は置いておいて・・・いまはこの「表現」をしにくい、どうもアートすることが憚られる、苦手意識を感じてしまっている、そんな状態だと思います。

本来は日常的に「する」ことが当たり前の行為を、「できない」と思っている。一種の便秘状態です。創造性が便秘な社会と言ってしまいましょうか。この便秘は解消せねばなりません。

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05.健康的にアート(ウンチ)するために


「表現」とは何も絵を描くとか楽器を演奏するとか、一般的なイメージの「表現」に限りません。自分を起点にして、自分の内にあるものを外に出す行為です。それは「外にある何か」を自分に取り込みながら実践する行為です。

だから、例えば読書だってアートになり得ます。読むだけだとインプットしただけですが、読んだものを何らかの表現でアウトプットすれば、その瞬間それはアートであり表現です。

別に言語的な表現に限らなくてもよいのです。五感でインプットし五感でアウトプットする、そのどれかを通っていればよい。だからもちろん「言語化」もアートです、でも「言語化」のほかにもアートは存在します。

まずは、自分にとっての「表現」が何かを知ることを意識してみるとよいでしょう。いろいろためしてみてください。私の場合は「妄想」をカタチにすることがアートでした。だから、その表現を続けています。

次に、日常的に自然につづけることです。ヤクルトも1日採ったからといって乳酸菌がすぐ腸に居着いてくれるわけではありません。健康的なウンチは日常の積み重ねから生まれます。



06.究極のアート(表現)は自分と自分の外を一体化させる


原始のアートでは「自然との一体化」が目的だったと考えられます。とは言え、必ずしもいまの時代においても「自然との一体化」が目的になり得るとは限りません。しかし、「縄文における自然」を「自分の外」や「自分より大きな何か」と捉えると見え方が変わってきます。

表現をとおして「自分」と「自分の外」の一体化を図る。「自分」と「自分より大きな何か」との一体化を図る。こう表現すると、意外と近くに実践している人っていませんか?

私の知っている方に、ビジネスをとおして「自分」と「顧客」を完全に一体化させる人がいます。自分でありながら既に顧客でもある。「利己」と「利他」が完全に一致しているんです。どっちが先という議論ではなく、「利己」と「利他」が溶け合っている。そんな人を見ると「アート」だなぁと感じることすらあるのです。

縄文人にとっての「自然」を現代に生きる私たちは何と見なすか、コレもひとりひとり違うのでしょう。言葉そのままnatureかもしれない、communityかもしれないし、localかもしれない、特定のmarketかもしれない。

そもそも縄文人が「自然」をどのような概念で捉えていたか、現代の私たちは想像するしかないですしね。しかし、「自らを起点にした表現」が究極にまで行きつくと「自己と自己の外との一体化」になるのかもしれません。

これをまた敢えてウンチに例えてしまうと、外界と一体化した状態でのウンチなので、私たちが究極に目指す場所は「野グソ」なのかもしれませんね。この一文で全部台無しです(笑)



07.【仮説】表現の「場」をつくることが解決策かもしれない


とは言え、「表現する」という行為を実践するのも難しいものです。

文化はそう簡単に変わらない、個人の価値観もそう簡単に変わらない。これは、「表現」することと「評価されること」が一体化されていたがゆえの表現に対する恐怖もあると思います。自分がウンチするたびにそのウンチを採点されてダメ出ししているのが現代です。

ならば、それを実行できる「場」をつくること。これがカギになるかもしれないと考えています。

個人が安心してアート(ウンチ)できる場をつくる。アート(ウンチ)することに何のためらいもない場、個人のアート(ウンチ)を出し合って見せるけど、そこに対する評価はしない場、そんな心理的安全性のある場がアート(ウンチ)の習慣化を支えてくれるのかもしれません。

実は、そんな「場」を作ってみたいと思い決意した記事を書きました。アート、表現とも関連性のある「創造性」。ひとりひとりが持っているはずのこの能力を解放するためには「場」が大切になるのではないかと思い、そんな場づくりを目論んでいます。場・・・つまりトイレと言えるのか?

誰もが健全にアート(ウンチ)できる社会であってほしい。そのために出来ることは「場」をつくることかもしれない。だから、ウンチするためのトイレづくりから始めます。


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