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ウクライナ(と西側)がロシアと早期に講和すべきという意見は正しいのか?

5月23日、スイスのダボスで開催された世界経済フォーラムに、アメリカの国務長官を務めた政治学者ヘンリー・キッシンジャーが出席し、ウクライナ情勢に関して発言した内容が世間の関心を集めました。キッシンジャーは、ウクライナは2か月以内にロシアと和平交渉を推進すべきであり、2014年以降にロシアが実効支配している南部のクリミア半島と東部のドンバス地方を明け渡すことも検討すべきだと主張したのです。

少数ながら、何人かの研究者がこのような立場に同調しています。その理由はさまざまです。キッシンジャーは自らの提案の根拠として、ロシアが中国との同盟関係を強化し、恒久化する危険性を挙げました。これと同じ立場をとっているのがシカゴ大学のジョン・ミアシャイマー教授であり、「ミアシャイマーはウクライナでの危機に対する米国の対応を非難する理由(Why John Mearsheimer Blames the U.S. for the Crisis in Ukraine)」(3月1日)で、ロシアを脅威と見なし、中国との関係を強化するように促したアメリカの政策を批判しています。

また、マカレスター大学のアンドリュー・レイサム(Andrew Latham)教授は、5月25日に発表した「ロシアを貶めることの愚かさ(The folly of humiliating Russia)」で、異なる論拠からロシアとの関係改善を主張しています。国家の指導者に屈辱を与える対外政策を実施すれば、ロシアは必ず復讐を図るので、それは長期的に安全保障環境を不安定にする危険が大きいとレイサムは考えています。

ロシアはすでに大きな屈辱を味わっているので、「劣等感や敗戦国の地位や立場を、限度を超えて低下させようとする懲罰的な条約や合意を押し付けることは避けるべきである」と提言しています。フランスのマクロン大統領は、6月4日にメディアの取材に応じて「戦いが止まったときに、外交を通じて出口を見出せるように、ロシアに屈辱を与えてはならない」と発言していますが、これもレイサムと同じ考え方によるものだといえるでしょう。

シンシナティ大学のブレンダン・グリーン(Brendan Green)助教授とジョージタウン大学のケイトリン・タルマッジ(Caitlin Talmadge)准教授は「アメリカがウクライナにおける目標を拡大する危うさ(The U.S. Is Expanding Its Goals in Ukraine. That’s Dangerous)」(5月11日)で、アメリカの政府、議会、軍部の発言内容から、アメリカがロシアを完全に敗北させることを追求しており、外交的な交渉を進めようとしていないと批判しています。

彼らの見解によれば、ロシア軍に壊滅的な被害を与え、ウクライナからロシアの勢力を締め出すことは、ロシアを不必要に追い詰め、北大西洋条約機構(NATO)との対決をやむを得ないものと判断させ、核兵器の使用に踏み切らせる恐れがあります。いったんエスカレーションが始まれば、それを制御することは難しく、ヨーロッパに取り返しのつかない損害をもたらす恐れがあります。このような事態を避けるためには、ロシアではなくウクライナに外交的な圧力をかけ、速やかに妥協するように働きかけることが必要であり、軍事援助を縮小することも検討すべきとされています。

これらの議論は一見するともっともらしく見えますが、さまざまな研究者の批判が加えられているところです。そもそも、ロシアと手を結べば、中国を孤立させることが可能になるというキッシンジャーやミアシャイマーの戦略に同意する研究者は決して多数派ではないと思います。ロシア側の感情を逆なでしないように外交交渉を進めるべきというレイサムの提言を受け入れたとしても、ロシアが要求を引き下げる保証はなく、かえって弱みに付け込んで要求を拡大させる恐れさえあります。グリーンとタルマリッジが懸念しているように、核のエスカレーションを避け、ウクライナにロシアの要求を受け入れるように促せば、確かに一時的にロシアを満足させることができるかもしれませんが、そのような実績をロシアに与えたならば、他の核保有国に武力行使を促すことに繋がる危険があると指摘できます。これらの提案は、少なくとも現状でウクライナや西側が進んで選択すべき内容ではなく、現実的ではないと評する研究者もいると思います。

ここでは二人の批判派の議論を紹介してみましょう。6月3日にランド研究所のラファエル・コーエン(Raphael S. Cohen)は、「『クマを棒でつついてはいけない』の再来(The Return of 'Don’t Poke the Bear')」と題する論説を発表し、今すぐロシアと和解を目指すべきであるという見解に対して包括的な批判を加えました。そもそも、5月の中旬でロシア軍がウクライナに投入した地上兵力は3分の1近くが失われており、攻勢の規模は大幅に縮小せざるを得なくなっていることも確認されています。

このような戦況の推移を踏まえれば、ウクライナに戦いから手を引くように働きかけることを提案することは、「政治音痴」であるとコーエンは評しています。もし首都を残しておけば、外国の領土を奪い取ることができることを実証することになるだけでなく、核保有国は核戦争の恐怖を煽れば、現状を変更できることを認識させることに繋がるとも指摘しています。

確かに、ロシアが核兵器を使用する可能性は否定できませんが、そのようなエスカレーションが起きたならば、アメリカも核保有国として相応の対応が可能であり、エスカレーションが進むほど追いつめられるのは、むしろロシアであることも考慮しておく必要があります。ロシアが戦争を拡大しようとしたところで、国内の人員を追加で動員することは政権の存続にとって大きなリスクがあり、直ちに実行可能な選択肢ではありません。

コーエンは、ロシアを中国に接近させることを防ぐべきというキッシンジャーの議論に関しては、観念的な世界でしか通用しないと評価しています。ロシアはこれまでに数々の選挙干渉、秘密工作を行ってきたので、西側との関係はすでに深刻なまでに悪化しており、ウクライナでの戦争がどのような結果になったとしても、関係が改善する見通しは立ちません。

ウクライナはすでに勝利を収めたので、戦争を終わらせるべきであるという意見があることもコーエンは紹介していますが、この点に関しては「戦争はまだ終わったわけではない」と指摘し、ロシアが武力に訴える前の段階であれば対話も可能だったが、武力を使って暴れまわっている現状では、対話ではなく、弾薬が必要であると締めくくっています。

批判を加えているのは、コーエンだけではありません。レイモンド・クオ(Raymond Kuo)は、「ウクライナはロシアに妥協すべきか?(Should Ukraine Settle with Russia?)」(6月20日)でロシアに歩み寄ることの危険性を掘り下げています。コーエンとは異なり、クオはウクライナの立場から問題を見ており、2月から3月にかけて、ロシアがウクライナから提示された早期和平に向けた妥協案を複数回にわたって拒絶していることを指摘しています。外交的な解決を難しくしてきたのは、ウクライナではなく、ロシアの強硬な態度です。

レイサムがロシアに屈辱感を与えないように交渉を進めるべきと主張したことに対して、クオは一定の理解を示していますが、外交の原則は第一に相手の利益のためではなく、自分の利益のために交渉することであると述べています。第二に譲歩する前に相手が本当に求めているものが何かを知ることが重要であり、第三に相手が実際にそれを実現することができるのかどうかを知らなければなりません。ロシアの感情を理解することの意義は否定できませんが、以上の三つの原則を守ることが優先されなければなりません。

ロシアに屈辱を与えないように配慮しながら外交を展開することは、結局、ロシアのプーチン大統領を満足させるような合意内容を追求することを意味しています。今の外交状況の課題は、どのような譲歩を行えばプーチン大統領が満足するのか誰にもはっきりと分かっていないことです。そのような状態で対話の姿勢を一方的に示すことは外交的に賢明ではありません。例えば、ウクライナがNATOに加盟しないと約束することは、ロシアを満足させるかもしれませんが、あるいはもっと多くの譲歩を重ねなければならないかもしれません。ロシアの要求が不明確な状態で一方的に譲歩することは自ら進んで交渉材料を捨てることに繋がります。

また、ロシアはウクライナが譲歩すれば、それを弱さの現れと見なし、さらに要求を拡大する可能性があります。これは常に考慮しておかなければならず、すでにロシア側はウクライナの中立化という当初の要求から始まり、政治的な独立の放棄、領土の一部譲歩へと要求を拡大してきました。また、ロシアがブダペスト覚書ミンスク合意中距離核戦力全廃条約といった重要な合意に違反してきたことを考えれば、ウクライナがロシアと交渉して合意に達したとしても、ロシアがそれを適切に履行する保証はどこにも見出せないでしょう。

不幸なことですが、この世界には外交によって解決することが難しい問題が数多く存在しており、戦争以外に選択肢がない場合があります。今のウクライナは耐え難い犠牲を払って戦いを続けていますが、それはロシアの要求があまりにも国家存立にとって死活的なものであるため、国民の生命と財産を守るために、妥協が許されないためです。

侵略者は戦争を短期で切り上げることができれば、それだけ侵略の費用負担を軽減できるので、しばしば防衛者に和平の提案を持ちかけてきますが、これは占領地を交渉材料として要求を受け入れさせる外交交渉のテクニックであり、真の意味で平和を求めているわけではありません。戦争では、しばしば侵略者が防衛者よりも平和愛好的な態度を示すことがあることを理解しておかなければなりません。ウクライナはすべての占領地を奪回するまで戦い続けることを内外に宣言していますが、これはロシアにウクライナの戦意を伝える上でも、ロシアが戦争の継続を断念させる上でも有効な方法です。

最後に、世界的に有名であり、また学界でも権威がある政治学者の意見だとしても、彼らが常に正しいことを述べていると思い込んではいけません。彼らがどれほど業績を積み上げているとしても、それが政治学の理論体系に立脚したものであるとは限らず、誤解を招くような議論を行うことも珍しくありません。立派な見解に見えたとしても、その論拠を明確化するように要求し、他の研究者の見解を参照するといった慎重さを持っておくことが大事だと思います。さもなければ、権威に訴える論証によって簡単に欺かれてしまうでしょう。

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