見出し画像

太平洋戦争の原因を解説した文献『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』の紹介

第二次世界大戦の悲惨な結末を知っている私たちにとって、1941年12月に日本が米国と戦争を始めたことは、ほとんどミステリーのようにも思える不可解な歴史です。圧倒的な国力を有する米国に対し、日本が絶望的な戦いを挑んだ要因を明らかにするため、戦後に数多くの政治学者が調査研究に取り組んできました。

その研究成果から分かってきたことは、当時の日本が関係者の意見や利害をまとめきれず、国家全体としての基本政策を決めきれていなかったということです。このことは静岡県立大学の森山優教授が一般向けに書き下ろした『日本はなぜ開戦に踏み切ったか:「両論併記」と「非決定」』(2012)の中で詳しく記述されています。

森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか:「両論併記」と「非決定」』新潮社、2012年

画像1

最終的な結論を出さない「非決定」のメカニズム

この著作では、日本が対米開戦に至った根本的な原因が「非決定」であったことを過程追跡という手法で明らかにしています。

日本が対米開戦に至るまでの過程で、日本の内部では政府と軍部、さらに陸軍と海軍の間で大きな立場の隔たりが生じていたことが問題の背景にあります。その溝を埋めようと関係者は協議を重ねていたのですが、それは国益のために議論を尽くすというよりも、各人が代表する組織の利益を最大化するための議論に陥りがちでした。

その結果として、対立する関係者の主張が国策の文章に「両論併記」され、最終的な決定を先送りにする「非決定」が繰り返されたと著者は論じています。

立論の起点になっているのは、大日本帝国憲法で定められていた日本の政治制度の分析です(第1章)。次に日米交渉が行き詰まった1941年9月の政策決定の展開が記述されており(第2章)、近衛内閣の崩壊(第3章)、東条内閣の成立と対米政策の動揺(第4章)、対米交渉の条件や期限をめぐる内部の対立(第5章)と議論が続いていきます。

本書の最も重要な議論は第6章以降に展開されており、対米交渉の最終局面で日本が戦争を避けるために案出した「甲案」と「乙案」の内容の分析(第6章)、そして乙案に基づく対米交渉の展開の記述(第7章)、そして米国が日本に対して突き付けてきた最後通牒「ハル・ノート」の影響が説明されています(第8章)。

一読すれば、国際情勢が大きく変化する中で、「非決定」に陥った日本に残された最後の選択肢が対米開戦であったことが分かるでしょう。

「非決定」の問題の解決に向けた試行錯誤

この著作では、日本が「非決定」のメカニズムに囚われていたことだけでなく、そこから抜け出そうと試行錯誤していたことも述べられています。

大日本帝国憲法で定められた日本の政治制度は、天皇の権威を頂点として位置づけつつ、その国家権力を分散させていました。例えば、政府と軍部はそれぞれに独立して天皇を輔弼(陸海軍の統帥部については輔弼ではなく輔翼)しており、より厳密には軍部も陸軍と海軍がまったく別の組織として動いており、両者の戦略は調整されていなかったのです(森山、16頁)。

それだけでなく、内閣を構成する総理大臣と他の国務大臣との間にも明確な指揮関係がなく、総理大臣には閣僚の任免権が与えられていなかったのです(同上、16-7頁)。総理と閣僚の意見が対立しても、総理は自分の意見を強制する法的手段がなく、閣内対立が内閣崩壊に直結するリスクが非常に高い制度でした。

天皇は主体的に政策過程に参加することは控えていました。政府と軍部は天皇の権威の下で対等な関係にあるので、もし政府と軍部の意見が対立したならば、よく話し合った上で、合意を形成し、その結論を天皇が国策として承認するという手続きが慣習になっていました。このような制度があったために、総理大臣としては陸軍や海軍に対して自らの方針を強制する法的手段がなかったといえます。

この問題を解決するため、第一次近衛文麿内閣(1937~1939)で大本営政府連絡会議という会議が立ち上げられ、政策と戦略の調整を促進する対策が講じられたことがあります。しかし、政府の政治的統制が強化されることを恐れた参謀本部は、1938年から連絡会議の開催に反対するようになり、連絡会議は2年以上にわたって途絶してしまいました(同上、20-1頁)。

1940年12月に代替手段として大本営政府連絡懇談会が開催されましたが、この連絡懇談会には法的根拠が欠けていました。その決定に拘束力を持たせるためには、内閣で閣議決定を下す手続きとして法的には必要とされました。ところが、この閣議決定で、秘密保全を理由に作戦関連の事項が削除された文章が採択されるなど、政策と戦略の調整に失敗しています(同上、23頁)。「つまり、政策担当者の対立が露呈しないレベルの内容でとりあえず「決定したことにする」のが「国策」決定の制度であった」と著者は述べています(同上、41頁)。

「非決定」が不可能な国際情勢に直面していた日本

「非決定」のメカニズムが日本の憲法に由来するものであり、それを解消するための対策がことごとく失敗してきたことを理解すれば、むしろ対米開戦という重要事項を決定できたことが尋常なことではなかったことが分かります。

著者は「その道程は決して必然的ではなく、どこかで一つ何かのタイミングがずれたら、開戦の意思決定は不可能だっただろう」と述べており、開戦に至る政策過程の経過で天皇、内閣、外務省、陸軍、海軍などが繰り広げた数え切れないほどの駆け引きが繰り広げられたことを記しています(同上、212頁)。

ここでその全ての経緯を述べることはできませんが、敗戦という最悪の事態を想定することを避けたからこそ、日米開戦という決定が可能になったと著者は指摘しています。これは1941年に発足した東条英機内閣の政策過程の分析から明らかにされています。

東条英機が政権を発足させた際に、彼は日米関係の急激な悪化を踏まえ、国策の抜本的な再検討を進めさせました。その結果、どのような政策案を採用するにしても、日本にとって明るい未来はあり得ないことが明らかになってきました。

当時、すでに米国が日本に石油の禁輸措置をとっており、近い将来に日本のエネルギー資源は枯渇することが避けられない状況でした。もし、この状況で東南アジア方面の油田を獲得するための新たな軍事作戦を開始せず、「臥薪嘗胆」の路線で経済的困窮を耐え忍ぶことになると、日本は戦争遂行能力を喪失し、国防は不可能になります(同上、158-9頁)。

対米開戦の選択肢も困難なものでした。日米の国力の格差は圧倒的なものであり、戦争が3年以上継続すると、陸海軍の首脳部でも確たる勝算が見込めなかったのです(159頁)。日本の能力では軍事的に勝ち目がないことは日本の関係者は認識していました。

妥協案として、対米開戦は回避しながらも、油田を獲得するため、英国とオランダに対してのみ軍事作戦を実施する案も出てきました。これが成功すれば、対米戦を避けつつ、油田を獲得することが見込めます。しかし、日本が対米開戦を避けたところで、東南アジア方面に日本が侵攻した後になって米国が参戦を決断すれば、日本は不利な態勢に置かれます。米国は総力を挙げて日本本土と東南アジアの油田との間の海上連絡線を遮断するでしょう(同上)。

結局のところ、日本は「最悪のケースに追い込まれることにおびえ、もっと最悪の事態を自ら引き寄せた」と著者は評価しています(同上、160頁)。
対米戦が3年目以降に突入した際に惨敗することが、もっと明確に認識されていれば、政策決定はまた違った形になっていたに違いありませんが(同上)、そのような最悪の事態を想定してしまっては、もはやどの選択肢も選びようがないほど当時の日本は追いつめられていたと言えます。

まとめ

日米開戦の原因に関する研究はさまざまありますが、この文献は主に国内政治を中心に据え、政策過程の詳細を追跡したものとして重要な成果だと思います。

巷には日米開戦の責任を陸軍や海軍といった特定の部署に帰するものもありますが、実情はより複雑であり、国内外の政治力学が組み合わさった結果として理解する方が適正だろうと思います。ただ、「非決定」の根底にあるのは大日本帝国憲法が抱えていた構造的欠陥であったことは、今後も認識されるべきだろうと思います。

関連記事


調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。