見出し画像

「言葉如きでは語れない?」安藤サクラさんの演技 ~映画「ある男」

今年発表された日本アカデミー賞で、すごくたくさんの賞をとって話題になっていた映画。高田馬場の名画座で「PLAN75」と二本立て上映をしてたので先日やっと観てきた(ほぼ事前知識なし)。

映画を観た後で原作となった小説や関連する新書も読んでみた。作者である平野啓一郎さんのいう「分人」が、この映画の主題=テーマであろうことは、もちろん伝わってくるし、これは、上野千鶴子さんらの書かれた書籍「脱アイデンティティ」や、以前、大学院のレポート(ハロウィンについて)で引用させてもらった多元的自我の話とも関わってきそうで興味深い(これについてはまた別途)。

こうした、ちょっと「左脳的 or 言語的」なこと(もちろん、左脳=論理、右脳=感情みたいな話は、実はそうでもないみたいというのは前提だけど、ここでは便宜的に)はよくわかるし、ちょっとおおげさにいうと「どうやって生きていったらいいんだろう」みたいなことを考えさせてくれる、すごく良い映画だと思う。

でも、とにもかくにも、この映画(原作小説ではなく)を観て一番心をつかまれたのは映画の冒頭。安藤サクラさんが、家業の文房具屋さんのシーンでみせる、なんというかすごい複雑な表情だあのシーン(カット)だけで、もうこの映画を観た甲斐があった気がする。それこそ「曖昧で主観的な感情」(これはドラマ「それパク」でちょっと印象的だったセリフ。これについてもそのうち書く)が、こちら(観てる方)に生まれた。

調べてみると、実は撮るときも、けっこう大変だったみたい。以下、ちょっとだけ引用。

そして迎えた撮影初日。ペンを手にして涙するシーンでハプニングが起きます。『OKなんだけど、でも、やっぱり何かが違うかもしれないから、もう一回やりたい』『本物じゃない』と、監督から矢継ぎ早にダメ出しされた安藤は、そこからどこを目指したらいいのかわからなくなり、3日間くらい困り果てたと告白しています。(中略)そんな彼女が、今作の初日舞台挨拶で「私この仕事向いてないと思うの。久しぶりに現場に入ったけれど、これで終わりにしようと思う」と、主役の妻夫木聡に打ち明けていたことが明らかになっている。

安藤サクラ “憑依系のモンスター”が映画『ある男』で女優引退の危機に迫られたワケhttps://friday.kodansha.co.jp/article/279237

なるほど~。やっぱり苦労されたんだ。でも、あのシーン(カット)の演技は結果的にはどうやって生まれたんだろう?(再びちょっと引用。太字筆者)

これまで感覚的に生きてきたのですが、この一年、一度論理的な思考に自分をはめて暮らしてみようと挑戦して、結果バランスを崩してしまった。そんな自分の変化の時期に出会ったのが里枝(「ある男」の中で安藤さんが演じている女性の名前。筆者追記)。
いつもの自分のアプローチとは違う仕方で、この作品では生きました。心と体の動きが一致していない状況は結果論からいうと、里枝のいる状況と重なっていたのかもしれません。そこが石川監督の狙いだったのかも。石川監督に負けた!と思っています

安藤サクラ “憑依系のモンスター”が映画『ある男』で女優引退の危機に迫られたワケhttps://friday.kodansha.co.jp/article/279237

心と体の動きが一致していない状況…。一歩間違えば心が壊れてしまいそう。すごいなぁ、プロだ。観てもらうのが一番だけど、試みに、あのカット(わずか35秒くらい)がどんな内容だったか、コトバで説明してみる。

激しめの雨が降っている。それを背景にした安藤さんのバストショット。売り物の文具を整理しながら(たぶんほとんど意味はない。手を動かしてるだけ)、口を右に少しゆがませると、涙がこぼれる。再び口をゆがませるとまた涙。やがて耐え切れなくなったように下を向いて顔をゆがませる。うしろにぼんやり、後に夫となる男(窪田正孝さん)がやってくるのが見える…。


ダメだ!少なくとも自分の文才では全然無理。質的研究法なんかでいうと、こうした事柄も、もしかしたらもっと精緻に言語化&切片化したりして分析可能だったりするんだろうか…(たぶん自分の考えてる方向性自体が違う)。よくわからないけど、今は「花泥棒(ヨルシカ)」の歌詞(この箇所が一番好き)が、しっくりくるかもしれない。

♪愛を歌えば言葉足らず 踏む韻さえ億劫
 花開いた今を言葉如きが語れるものか

春泥棒(ヨルシカ)より

言葉で語れないってことを、歌詞(言葉)に代弁させるのも矛盾した話だとは思う。すみません。でも、ほんとに、どうしてあのカット、あの演技にこんなに惹かれるのか、心が動いたのか。自分のことなのにやっぱり言葉で表現するのは難しい気がする。

ちなみに、ここで「言葉では語れないかも」といってるのは、映画における安藤さんの(冒頭の)演技、あるいはそれによって動かされた自分の感情について。原作小説を読むと、この登場人物の心情は、背景含めきちんと表現されていて、ちゃんと腑に落ちる。(下記。あくまで筆者の主観で関係していそうな個所を抜粋) 

一人になると、死んだ息子のことを考えて、よく泣いた。 亡くなる一月ほど前だっただろ うか、医師と話をするために病室を離れ、戻ってきた時の静かに天井を見つめていた遼の 横顔が忘れられなかった。(中略)店の仕事机でじっとしていると、時々、自分は大丈夫だろうかと不安になるほどの空虚感に見舞われた。この世界と自分との留め金が外れてしまって、何の手触りもなく、時間が周囲を素通りしてゆく。池の底に沈んでいたゴミが、何かの拍子に浮かんでくるように、 唐突に、死ぬことはそれほど恐いことではないのではという考えが意識に上った。

平野啓一郎. ある男 (コルク) (p.14-15). Kindle 版.

あたりまえかもしれないけど、読んでみると、やっぱりプロ。すごい。文章には文章にしかできないことがきっとある。でも、映画ではこうした背景を含む説明や表現が一切ない状況で、今回取り上げた安藤さんのシーンは始まる(ほぼ冒頭と言っていいシーンだし)。それで、あれだけ心をつかまれるんだから…。

たぶん映像とか演技みたいなものには、理屈を超えた、ノンバーバル(非言語的)な何かを伝えるのに向いてる特性みたいなものがある気がする。もちろん、文章には文章でしかできない表現や、メディアとしての特性があるのもわかる。一度、こうしたいろんなメディア(文章も絵も写真も音も演劇も、そしてヒトも”何かを伝える”メディアのひとつ)の特性について、きちんと考え直してみるのもいいかもしれない。初投稿なのに、いきなり長くなってしまった。今日はここまで!

※映画「ある男」はAmazonプライムで観られるみたいです。https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0BY1CG45M/ref=atv_dp_share_r_em_9d3cc7876ac14

※原作小説はこちら。どちらもおすすめです。



この記事が参加している募集

#映画感想文

67,587件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?